見出し画像

死について考える~読書記録265~

1987年、作家・遠藤周作のエッセイである。
「本当に苦しいでしょうね」「やがて私たちもそうなるんですから」生き残る者のこの言葉はまもなく地上を去っていく者に理解と人間的連帯とを示し、ある程度の慰めを与える。だが、それは死んでいく者の苦しみの半分を慰めてあげても、あとの半分を鎮めはしない。その50パーセントをも鎮めるためには…。著者が遺そうとした心優しいメッセージ。(版元紹介より)

この頃、遠藤周作は60代前半。65歳になったら、もう書かないと決めていたようだ。
遠藤周作はカトリック教徒であるから、当然、死生観というものはキリスト教的になる。本人はなるべく出さないようにしたらしいが、そうはなってはいない。共感出来るものと出来ないものがあるのは、私がモームのように、クリスチャンが嫌いだからだろう。

遠藤周作が死に対して真剣に考えるきっかけとなったのは上顎癌の疑いがあるからと手術をしてからだ。その時に自分は助かったが、25歳のお手伝いさんが血液の癌で亡くなったからだという。
1980年冬、上顎癌の疑いで慶応病院に入院し手術。同じ頃、遠藤家のお手伝いの女性が骨髄癌で入院し、検査漬けで苦しんで死んだのがきっかけで、2年後に「心あたたかな医療」キャンペーンを始める。

この本の中では、たびたび、キューブラー・ロスの話が出て来る。有名な「死の瞬間」を著作したアメリカ人医師である。
それほど、遠藤周作にとっての60代は、死を身近に捉えていたのかもしれない。だが、そこは流石に信仰を持つ者で、悲壮感はない。
先に亡くなった母、兄に会いたいとも言っている。

天台宗の僧侶・源信が比叡山中で書いた「往生要集」の話もたびたび出て来る。あれは、日本版のホスピスではないか、と遠藤周作は言うのだ。いかにして死を乗り越えるかの死に支度であると。

源信「往生要集」

確かに、昔の人たちは、死をどうやって迎えるかの心がまえがあったように感じる。

「信仰というものは、99%の疑いと、1%の希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ベルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。疑いがあるから信仰なんです。(本書より)

神を憎む事も、神の存在を初めから無視している無宗教や無関心ではなく、憎むということで神を強く意識していることです。神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう。(本書より)

遠藤周作は、苦しい時には騒いでもいいのだと書いている。武士道にある、潔い死などを考えていない。その辺りは読むとホッとする。
だが、こんなにもイエスに愛され、愛している遠藤周作を妬ましくも思うのであった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?