見出し画像

嘲笑

秋季にしては生暖かい風が、半開きの窓の手前で閉められた網戸の隙間を縫って侵入してきた。田舎独特の土と草のにおい、むわりとした空気に頬を撫でられて、男は堪らず網戸に手をかけ横にひくと同時に、素早くガラス張りの窓を乱暴に閉めた。魘されて、汗だくで起き上がったことを笑われた気がして、堪らず灯を求めて室内に侵入しようとした蛾を悪人の表情で嘲笑した。ただでさえ、自尊心が崩壊して、見せかけのテープで修復していたのだ。男にとってはそれでさえ、心のテープを引き剥がされたことと同義のようなものだった。なんとか自分を保つために、台所に小走りで向い、色白で薄皮の張った男らしくない腕でコップをつかみ、冷水を注いで一気に飲み干した。無理矢理自分をだました男は、シンクにコップを置き去りにして自室に戻った。シミのついたシーツが引かれた古めかしいベッドは、座るたびにギシギシと痛がっていた。男はおもむろに机の横に山のように積まれた文庫本から、真っ黒な表紙をした一冊を取り出し、薄い毛布の上に寝そべり、何も履いていない両足をこすり合わせながら最初の頁を開いた。そしてどこか虚ろな目で文字を追い始めた。

          *

児童の頃から、多人数を好まない、落ち着きのあるタイプだと周りから思われていた。自分でもそう考えた節はあったが、自分が寂寞とした、もっと言えば空虚な人間だと気づいたのは、形態としての大人になったときだった。新卒で入ったこじんまりとした企業で待っていたのは充実した生活、なんてものではなく、誰もが口をそろえて言う程の陰湿ないじめだった。きっかけなんて覚えちゃいなかったが、どうやら相当な不愛想だったらしい。気づけば周囲からの無視、物陰での嘲り、罵りは日常茶飯事といっても差し支えなかった。男は自分こそ憎まなかったが、代わりに自分を創造した神様というものを憎んだ。神様にざまあみろという為に自死を図り、何度も失敗しては次こそはと、意気込んでいた。だが、幾度となく失敗し、肉体的に消えることはできないと考えた男は、自分を社会的に抹殺する為に家に引きこもり、人の記憶から逃げるという暴挙にでた。記憶されているかどうかなんてわかりはしないが、神様に勝った気になり暫くは高揚感に溺れていた。当時、男にとってはそれがすべてだった。

          *

もう何年も外には出ていない。出たら誰かに笑われる気がして、出る気にはならなかった。男は文庫本があればそれなりに幸せだった。今の生活で満足しているため、あちこちに漆喰ができ、痛み、散らかったこの家を綺麗にしたり、世間的に常識とされている「労働」に手を出す必要性を微塵も感じなかった。金も消費欲すらない男には不要だった。だが、相変わらず空虚な人間には変わらなかった為、自分がこうして肉体的に存在していることに意味を見いだせないでいた。瞼が重くなってきた男は、いそいそと就寝の準備を始めた。文庫本を音もなく閉じ、机の上の小さな赤みがかった灯を消そうとした。そのとき、どこからかけたたましいバイク音と耳を腐らせるような不快な笑い声が聞こえ、遠ざかっていくのが聞こえた。男は田舎に似つかわしくない連中が来たということよりも、自分を笑いに来たというひどい妄想で頭が真っ白になり、嗚咽をもらし、体を小刻みに震わせた。その度に男が座っていたベッドが軋み、言葉を発したために、男は我に返って思い切り毛布を被り、まるで何かから隠れるかのように息をひそめた。外では虫たちが大きく鳴いていたが、男の耳にはこれっぽっちも入っていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?