藤原

22年目の告白〜私が債務者です〜

「私が債務者・・・借金300ニキです。」

藤原


正月休みも今日で終わり、明日から社畜生活が始まることへの抵抗か、

人生がいつ終わってしまうのか分からない不安からか、

1時間ほど過去を振り返ってみようと思う。

一部フィクションを交えながら、読み物として読んで欲しい。


・・・初めて借金をしたのはいつのことだっただろうか。

遡ればそれは遙か昔、
幼き頃に、ゲームセンターで兄貴に100円を借りたことだろうか。

昔からジャスコ(現:イオン)のメダルゲームが大好きだった。

じゃんけんマシンで「じゃんけん、ポン!ズコー!」とか、「じゃんけん、ポン!フィーバー!!(×1)ヤッピー!」

じゃんけん

当時100円で10枚のメダルゲームに、いくら親の金を費やしたことか。じゃんけんに勝利しても、配当に×1倍があるという鬼畜なこのマシーン。そんなクソゲーにすら一喜一憂していた事を覚えている。

5スロよりもレートが高く、しかも交換もできないこの遊戯にハマってしまった俺は、その時から既に養分だったのかもしれない。



時は流れ続け、俺は高校生までメダルゲームをやり続けた。

高校生の時、当時ハマったのはスターホースプログレス。

メダル40枚で自分の馬を作れて、Ⅰ着になればGⅢだとしても100枚もらえる。海外レースはなかったが、GⅠを勝ったら出場できるWBC(ワールドブリーダーズカップ)に関しては、1着の賞金が3000枚という破格の枚数。

更には、3歳馬から作り牡馬三冠を成し遂げれば、表示されたプログレッシブボーナスが手に入る。

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幼少期はメダルが20枚出れば大興奮だったのに、三冠ジャックポットは3万枚・・・気付けば価値観のレートが崩壊し始めていた。

こうして、メダルゲームを通して競馬の脚質とかペースとかなんとなく理解し始めた頃、同時に知識を持ったのがスロットだった。

当時そのゲーセンには100円で40クレジットのスロットコーナーがあって、
訳も分からず、タロットマスターでスロットデビューしたのを覚えている。

当然目押しも出来なければ、リプレイハズシも出来ない。

10台以上あった北斗を100円でカニ歩きしながら高確っぽい挙動の台を探して、2チェ(当時の呼ばれ方)で刺す。

(もちろん、初代北斗のチェリーも目押しが出来ないため、取りこぼしたり、角チェリーで停止させていたことも多々ある)

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もとを辿れば、全てはスタホで最強馬を作るためのメダル集め。

そのためだったけど、気付けば、スタホよりもパチスロ北斗の拳の奥深さに惹かれていくのだった。


そして、高校3年生の夏。

青春時代を過ごした仲間たちの目の色も変わり始める。

俺が通っていたのは、県内でもそこそこの進学校だったため、同級生は大学受験に向け、夏の花火大会にもいかず、自習室や予備校にこもっていた。

かく言う俺も、東京の某大学を目指して一日中勉強し続けていた、、、、訳もなく。


その当時タレ目で可愛い彼女がいたが、彼女を自宅まで送っていった(チャリで)帰りには、必ずゲーセンに立ち寄る。こんな始末。

本当に終わっている。

この頃から、ギャンブルをするために人に嘘をつく、そんな人生が始まっていたのかもしれないと、今この文を書きながらにして、後悔の念が胸から溢れ出そうになっている。

悔しいです


当然、その年の受験は失敗。周りの同級生は国立大学、早慶上智、悪くてもMARCHのどこかに進学する中、俺は都内の無名大学へと進学した。

高校入学時は一斉によーいドン!したはずなのに、3年が経つ頃には、大幅に出遅れていた。

スイープトウショウ、デュランダル、ブロードアピール、シルクジャスティス。ヒシミラクル、ランニングゲイルは、大まくり。

スタホで知識を得た、過去の追い込み、まくり馬たちのようにいつかなれる、離れていく高校時代の同士の背中も見ずに、俺はリールだけを見続けた。

大学1,2年の頃、好きだったのは、当時アビリットというメーカーから出ていた初代鬼浜爆走愚連隊。


ぶっこんで


設定変更をしていようがゲーム数が宵越しされるという立ち回りしやすさやから、とにかくハマり台を打てば勝てる。BIGは450枚前後。天国も50%以上でループする。

当時、俺が通っていた店は客のレベルも低く、
閉店チェックを怠らなければ、当日昼過ぎノーボーナス300ゲーム前後の台を打つだけで、かなり安定した勝率で勝つことが出来た。

そして、もう一台は主役は銭形。

銭形


言わずとしれたMAX711枚獲得のビッグボーナスを搭載した4号機の名機の一つ。特徴として、REGボーナスの場合は天井が999ゲーム。
1000Gを超えた場合は711枚のBIGが確定するという超絶ハイエナ向けの機種だった。

そのため、店内を徘徊し、600G超えの台を打つご老人がいれば、下皿にある1000円札の残り枚数をチェックしては、また1周。

今の時代でこそ、潜伏確変のある台の導入当初は軍団員たちが、ベガ立ちしているのをよく見かけるが、その当時は本当に客層がぬるかった。

俺こそが店内で唯一のベガだった。

ベガ立ち

それなりに大学生らしいことをやったり、風俗だって、サークルだって、真面目な恋愛だって、しっかりこなしてきた。

でも、全ての中心はパチスロで、大学4年間の間で貯めた来店ポイントで、そこそこのソファがもらえるくらいに、毎日通い詰めていた。

青春の時間をパチスロに代償として払ったが、貯金はしっかり増えた。ラーメン屋のアルバイトはろくにシフトに入っていなかったが、結局、大学卒業時で150万ほどの貯金があった。

そして、就職をする。もちろん、就職先は2流企業で、そして全国勤務。初めての配属は東京を離れることになった。

初任給は23万。住民税が引かれない1年目は、別になんとでもなる。金さえあればなんとでもなる。大学4年から付き合っていた彼女とも2週に1度のペースで会っていた。

パチスロで蓄えた貯金が俺を強気にした。

初任給では、地元に残した父親にネクタイと、旅行好きな母親にはびゅう商品券20000円分をプレゼントしたことを覚えている。

このことを思い出すだけで、胸が何かに締め付けられるのは気のせいであって欲しい。

そして、貯金150万、初任給23万、ピカピカの社会人1年目でスタートした、わずか半年後。




ついに俺はサラ金から借金をする。多重サイマーの登竜門、エポスカードで借金をする。

〜続く?〜

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