3才から愛読書は時刻表!ラ・サール、一橋大、マッキンゼー、ベンチャーから家業の水産会社へ。その経験を活かし最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 中原晋司さん(中原水産株式会社)パート1 3 社会の広告社 2024年3月24日 12:40 中原晋司さん(中原水産株式会社 代表取締役)聞き手:山田英治(社会の広告社)〜この記事は上記動画の書き起こしです〜中原さん)名前は中原晋司と申します。仕事は、かつお節の商品を販売する仕事をしております。山田)中原さんは今、中原水産という、かつお節を販売するお仕事をされていますが、その一方で、鉄道のJR九州「指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)」のブランドコンサルというローカル線を盛り上げる活動もされています。それは、事業としてやられているのでしょうか?中原さん)うちは、水産会社ではあるのですが、鉄道事業部門というものがありまして、「南九州鉄道プロジェクト」という事業名で活動しております。山田)水産会社が鉄道事業ということは、あまり聞いたことがないのですが、なぜ、そういったことをされているのですか?中原さん)一つは、会社の理念として、地域課題に関するいろいろな課題を、事業で解決するというものがあります。水産関係が本業だったのですが、鉄道をはじめとする公共交通というものは、その町をつくる上で欠かせない手段です。移動手段というものがなくなってしまうと、町が衰退してしまうということで、それで事業に取り組んでおります。鉄道の中で、例えば線路を敷いたり、車両を運転したりすることではなく、運転をする上で、例えば、いかにお客さんを呼んでくるか、その鉄道を使ってどういう催しをするのか、物販などのサービスをどうするのかということですね。その部分に特化して、携わっているという感じですね。やはり日本の鉄道の端っこ中の端っこ、最南端の路線ということで、誰か途中で通るわけではなく、枕崎に来る目的がないと来ない路線です。そのため、多分、日本の中でも最北端、最南端といったところが一番ハードルは高いと思っております。多分、放っておくと、もう誰も利用しなくなり、鉄道というものは廃線になると思います。けれども、まだ価値がいろいろあるのではないかということを、ちゃんと理解した上でその価値を少しでも上げる活動していきたいというふうに思って活動しております。【3歳から愛読書は時刻表、中高大から社会人まで乗り鉄】山田)元々こちらのご出身だと思うのですが、どんな子供時代でしたか?中原さん)私は枕崎で生まれ育って、小学生まで枕崎にいました。実は3歳の頃に、愛読書が時刻表になっておりました。その時に覚えていることで、路線図が時刻表には書いてあるのですが、枕崎というものは最初のページで一番端っこにあるのですね。そこから北海道の稚内まで線路は繋がっているのだなということを思い描きながら、いつも時刻表を枕にして寝ていました。どの列車を使って、どこまで行くという旅行計画のようなものを3歳ぐらいから作っておりまして、かなり鉄道が好きです。写真や模型というよりも、旅行計画を作って乗るということが結構好きな子供でした。山田)元々好きだったのですね、鉄ちゃんだったのですね。中原さん)そういうことですね。山田)なるほど、青春18きっぷなどで全国を回ったりしていたのですか?中原さん)そういうこともありましたね。山田)ありましたか。中原さん)飛行機に乗り遅れて、その腹いせに青春18きっぷで、3泊4日ぐらいで(回り)鹿児島に戻ってくるとかですね。小学校のあと、中・高は鹿児島市内に住んでおりました。その後、大学と社会人を12年ぐらい東京で過ごすことになります。やはり中・高・大学時代や東京にいた時代には、家や大学、会社の間を同じルートではなく毎回違うルートで帰りまして、毎回、通勤・通学も乗り鉄をしていたという思い出もございますね。山田)通っていたところはどこの中学校ですか?中原さん)ラ・サール中学・高校です。山田)あの、かの有名なラ・サールということですね。ラ・サールは全寮制ではないのですか?そんなイメージがあったのですが?中原さん)通える人は通うという形でした。私は、鹿児島市内にも他の兄弟がいて、塾などの関係で枕崎から通うと公共交通がなく、鹿児島市内に住む方が便利だということで住んでおりました。そのため、自宅生ということで、路面電車で通っていましたね。山田)なるほど。その頃は将来鉄道に携わりたいなど、どういった夢があったのですか?中原さん)その頃は、実家の家業は水産会社で、父が2代目をしていました。私は兄弟がいるのですが、私は長男ではなく、次男でした。そのため、継がなければいけないということは多分、なかったですね。親もいろいろなことを経験して、好きなことをして、というような方針でした。結構コロコロ変わるのですが、例えば、貿易をすることや、官僚になるなどいろいろな思いが多分あったのだと思います。山田)官僚、国のお役人になりたい時もあったのですね。中原さん)特に外交に興味があって、日本の国をもっと元気にしたいなど、そういうことには結構憧れていたと思います。山田)では、枕崎の地域のためにというよりは、外の世界に出ていろいろな活躍をしたいと、その頃は思っていたということですね。中原さん)そうですね。特に家業が、世界中から魚を仕入れて、世界中に売るということもしていましたので。その枕崎や鹿児島市内など、都会ではないところかもしれませんが、やっていることは、全世界を相手にしていましたので、そのあたりは結構、家庭の影響が強かったのかなというふうに思います。大学に行く時に、当初は法律関係のお仕事に就きたくて、法学部を目指していました。しかし、父と話をしている中で、経済の“グローバルさ”について考えました。もちろん法律もグローバルなところはあると思うのですが、自由にいろいろな商売を仕掛けていくというルールを自分で作っていくところが非常に面白いかなというところがありました。最終的には商学部の方に行きまして、そこで経営を学ぶということを専攻しておりました。山田)それは家を継ぐぞ!という感覚ではなくて、ですよね。自分で何かをしようということなのですよね。中原さん)やっぱりその家を継ぐ前提ではないのですが、ビジネスをするということなど、その頃は鹿児島や地元に対しては、例えば将来的に地元に戻ってきて何かするというのが、選択肢として一つはあるという感じですね。ただ、都会などそういうグローバルはまだ見知らぬ世界で、そこで働くということも、もちろん魅力的なため、とにかく外の世界を知ろうということで、最終的には鹿児島から一回出るということになります。商社やいろいろなコンサルティングの会社など、大学の時にインターンをしたところでいくつかご縁があって。それが1週間だけだったのですが、非常に面白かったということがあり、コンサルティングの会社などを受けて内定をいただいたところに入りました。【マッキンゼーとベンチャーの経験活かし、家業の水産会社を再建】山田)それは何という会社に入ったのですか?中原さん)マッキンゼーアンドカンパニーという会社ですね。山田)インターンの時は、コンサルの何に感動したのですか?中原さん)何か物事についていろいろな人があるべき姿など、そういうことを考えること、頭を働かせることにすごく感動しました。私も結構、理屈っぽくて、「なぜ何君」と昔、子供の時に言われていて(笑)。「なぜ」を6回ぐらい多分聞いていて、うるさいみたいな感じで止められていたのです。けれども、逆に「なぜ」ということを、マッキンゼーの人には、6回ぐらい訊かれているのですよね。そのため、そこは自分がやっていた得意なことが、もしかしたら仕事になるかもしれないということがありました。すごいことはやっぱり、物事の正しい結論を出すということに対してあまり年齢などは関係ないということです。もちろん経験のある人はその経験をお話してくださるのですが、どんな新入りにしても事実をちゃんと積み重ねて結論を出す、というやり方にすごく感動し、短期間ですごく成長できるところだなと思いましたので、その会社に入りました。山田)マッキンゼーといいますと、世界有数の会社だと思うのです。イメージとしては、ものすごく過酷な、競争社会といったイメージがあるのですが、会社の働き方などそのあたりはどうでしたか?中原さん)やっぱりすごく厳しいというか、短期間で診断して、それで解決策をやるというところまで持っていかなければいけないため、はっきりいって期間が短いなどということは言い訳になりません。お金をいただいて仕事をするためにものすごいプレッシャーの中で、何とか価値を出そうと、すごくもがいたという形で、そこが非常に良い経験だったかなと思いますね。昔はやっぱり本当に寝る暇もなく働いたというイメージがありますね。やっぱりそこまでしないと結果が出ないというところで。マッキンゼーに4年半くらいいましたね。山田)辞めてしまったことは、辛いわけではなかったのですよね?すごく楽しく刺激的で、学びのある日々だったわけですよね。マッキンゼーを辞めたのはなぜなのですか?中原さん)ちょっとその頃に、自分の将来といいますか、地元に戻るのかなど、いろいろと考えている中でした。コンサルティングの会社というものが、すごく価値があることを私は知っていると思うのです。ただコンサルティングは当事者ではないのですよね。やっぱりクライアントがいて何かをやるということは、クライアントさんがやるということなのですよね。そのため、そういう意味では、自分としてはコンサルティングのような仕事もすごく好きなのですが、最終的には自分が主体となってやりたいという気持ちがあります。またコンサルティング(をする場合)も、大企業を相手に短期間で実施する話のため、大きなビジネスの中でほんの一部かなと思っていてですね。やっぱりもっと他のいろいろな経験をしないと、トータルとして自分が成長しないというところがあったと思います。そのため、それを機に全く違うところに転職しました。ゼロイチでやってみたいといいますか、その起業というところをやってみたいという気持ちがありました。そこで、2つか3つぐらいの事業を立ち上げることに関わりましたね。例えば、3年間でこれだけのお金を用意するから、これだけの事業を、これだけのスピードで成長させるといったことを実験的にやった会社なのですよね。山田)その後に、どういうきっかけで実家を継ぐことになったのですか?中原さん)実家はですね、私が大学生の頃はいろいろな失敗もありながら、事業としては順調だったのです。やっぱり環境の変化ですね。その昔やっていた商売というのが成功パターンではなく、逆に足を引っ張るというのですかね。赤字になってしまいました。特に加工部門が非常に赤字で、作れば作るほど赤字という状態でした。それまで得た利益というのはあったのですが、それをもう食いつぶして会社の存続に影響を及ぼすというような状況になっていました。それを私も2社の会社に勤めながら、会社の財務状況というものは見ていましたので。これは多分ほっておくと、ちょっと先が短くて下手すると倒産してしまうということがあるため、その時に、自分としてできることはないかと思いました。もともと、地元に戻って何か仕事をするということを考えた時に、やはり自分が戻るということが一番いい選択だろうということで、それで戻ったという感じですね。私はどちらかというと加工品みたいなものを、そのベンチャーの時にもやっていましたので、そのあたりで活路が見出せるのではないかということで戻ったという感じです。山田)そうなのですね。中原さん)東京で2社経験したのですが、その経験を非常に活用できました。最初にやったことが無駄の削減、コストの削減ということです。筋肉質に「まずはやる!」ということなのですが、それはマッキンゼーでいっぱいやっていました。そのため、額や規模は違うのですが、どういうふうにすれば(無駄やコストが)減っていくのかというノウハウのようなものはあったため、そこでは論理的にその会社を良くできるのです。ただそこから先はですね、やはりベンチャーの経験が生きていて、いろいろなことを絞った結果、新しい事業を生み出していかないと中小企業は生き残れないということに気付きました。そこで、どこの部分を活かして、どこの部分を終わらせるかというところの取捨選択をしながら(取り組みました)。元々加工部門で工場を持っていましたが、そこは作れば作るほど赤字だったり、大ロットだったりしました。稼働することが最優先になってしまって、少量多品種の商品を作った方が本当はいいという仮説があったのですが、なかなかそれができなかったのです。何でも(元々のやり方は)思い切ってやめて、そういう少量多品種にするために他のところに作らせて、そこから仕入れるという形を取りました。それが実は2社目の会社のオーナーが得意とした手法だったのですよ。産地を使って、(自社工場では)ものを作らない企業という形ですね。当時は何をやっているか分からないと言われましたけれども、そこが決め手になって何とか再建ができたという感じです。【駅舎消滅をきっかけに指宿枕崎線の企画をSNSにアップ、夢のイベントが実現しビジネス化!】山田)またちょっと話が戻りますけれど、地域の「指宿枕崎線」を盛り上げる事業に参画するきっかけは何ですか?中原水産としてのビジネスの本丸の部分といいますか、そこが見えてきた中で、地域のためにやってみようかという流れなのですかね?中原さん)そうですね。元々の鉄道とのかかわり合いはですね、14年前に戻ってきた時に一つの衝撃的な事件・状況がありました。枕崎の駅舎がなくなっていたのです。今あるのは、最近できた最新の駅舎なのですが、その前に、枕崎というのは、もう一つ南薩鉄道というのが走っていて、立派な駅舎がドンと鎮座していて心の拠り所みたいなところだったのです。けれども、再開発がありました。今は駅舎の奥にスーパーがあるのですが、そこの駐車場だったところが元々は駅舎だったのですね。再開発で、そこは結局解体されて更地になり、線路も切られて駅舎もないと。本当にホームだけという状況があって、愕然としたのですよね。“最南端”の駅と名乗ることはそんなにないのですが、それがなくなっていました。物事というものは、何もしなければなくなり、活用できなければなくなるのだなと気づきました。駅舎もなくなっていくし、線路がなくなっていくかもしれないと、その時すごく危機感を覚えたのですね。そこで、地元に戻って再建もしながら、SNSに「指宿と枕崎の間に特急列車を走らせたらどうなる?」というテーマで、ダイヤまで含めてどんなことをするかなどを書いて、アップしたのですよ。そうすると、枕崎市役所の方と、指宿の観光協会の会長の目にとまって、この駅舎が新しくできることになったのです。その時に、記念列車を走らせるのですけれど、その中で何かやってみないかというのが枕崎市役所職員の声でありました。指宿もやっぱり、指宿までは観光列車が来ておりますが、そこから先が難しいのです。南薩地域は、このあたりに訪れた人を滞在させて指宿に延泊してもらうことが目標だったらしいのです。じゃあ、その妄想の列車を現実化してみないかということで「夢たまプロジェクト」というのができたというわけです。山田)そうなのですか。「夢たま」の名称はどこからきたのですか?中原さん)枕崎まで観光列車「指宿のたまて箱」を走らせる夢を実現するということで、「夢たまプロジェクト」なのです。山田)その特別列車、記念列車では、「その中のことをやっていいよ」と言われて、具体的にどういうことやっているのですか?中原さん)大体1年に一回、十何年前くらいに、最初は「指宿のたまて箱」を枕崎に引っ張ってくるというものがあって、その中で何を振る舞うか、着いたら何をするかという企画の実施のようなことをかなり任せていただきました。その列車の中で、かつお節を使った飲み物を展開したりしました。枕崎駅について30分くらい時間があるのですが、その間に枕崎の牛、豚、鳥や魚などを選べる丼ぶりや、デザートも選べるようにしました。枕崎のグルメの懐の広さを表現するようなお弁当などを駅で展開したりしたのです。あとは七夕の時期に七夕列車というものを走らせました。私は彦星ではなく、「ひこ出汁」という彦星のコスプレをして、皆さんを自分のお店に連れていって、カラフルなそうめん・天の川そうめんという出汁のおいしいそうめんを振る舞ったりしました。その後、港祭というのが同時期に開催されているのですが、そこで花火を見られる指定席に座っていただいたりしました。つまり、列車の移動中に何をするかと、着いてからどうするかということを考えて、それらの企画と実施にかなり携わったということなのです。このイベント列車をやった時に、実際お金をいただくなどして、これは仕事になるなと思ったのですね。やっぱり飲み物を提供するだけではなく、何かサービスを振る舞ったとしても、それがお金になるのでしたら、私たちは水産会社ですが、この鉄道を活用して事業になるなという思いがありました。あとですね、マッキンゼー時代に、実は鉄道会社様がクライアントだった時があって、いろいろな、例えば鉄道会社の収入を増やすために何をしたらいいのかと言ったことでリサーチを設計するような経験もあったのです。ただちょっと途中で体調を崩して離れることになってしまったので、ちょっと心残りがあったのですよね。そういった経験もあって、こうしたイベント列車だけではなく、鉄道の価値をちゃんと定量化したりしました。あとは、地元を巻き込んで、何かムーブメントを起こすことは、マッキンゼー時代などに結構やったことがあるため、それを活かせられないかということで、事業化を模索したという経緯がありますね。一番、大きなミッションは、この「指宿枕崎線終点の枕崎市」ですね。この町が発展しないと、やはりその中の地場の産業として生きている我々としては、会社も発展できないということがあります。この町をどうするかということの中に、その移動手段として鉄道があって、そこに関与することで、自分たちの会社も伸びていくし、町の人たちも伸びていく。市民も潤うし他の企業も伸びていくという形です。枕崎の人たちが元気になれる活動をすることが会社のミッションだということで、鉄道事業もやっております。中原晋司さんインタビュー パート2へ続きます。 https://note.com/shakainoad/n/n372ede78704a中原さんパート2の動画はこちらです。ぜひ続きをご覧ください!「大赤字のローカル線はなくなって当然?」採算以外のローカル線の価値を定量化し、最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメント中原晋司さん パート②https://x.gd/tHbOi***メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、いいねボタンをどうぞよろしくお願いいたします。★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門のクリエイティブエージェンシーです。株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/ #SDGs #社会起業家 #乗り鉄 #一橋大学 #JR九州 #マッキンゼー #ローカル鉄道 #メガホン #ラ・サール #指宿枕崎線 #枕崎市 #社会の広告社 #一橋大学商学部 #中原晋司 3 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート