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#384 羅城門はなぜ修理できなかったのか?

芥川龍之介の小説『羅生門』に登場する羅生門。
正式には「羅城門」と言い、いわば平安京の正門である。

『羅生門』には、以下のような記述がある。

この二三年、京都には、地震とか辻風つじかぜとか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。そこで洛中らくちゅうのさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹にがついたり、金銀の箔はくがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪たきぎの料しろに売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。

芥川龍之介『羅生門』(青空文庫より)

『羅生門』の時代設定には諸説があるが、平安時代後半~末期(1000年代)くらいと言われている。

この頃、都は荒れ果て、羅城門は修理されることなく朽ち果てていたとされている。

ここで歴史の教科書を見てほしい。
1000年代と言えば、藤原道長を筆頭に藤原氏が台頭し、摂関政治が全盛を迎えていた時代である。
道長の息子の頼道は極楽浄土を再現した平等院鳳凰堂を建てている。

にもかかわらず、国家の権力の象徴とも言える都の正門がなぜ朽ちたまま放置されていたのか。

一言で言うと、「国に立て直すお金がなかったから」である。

平等鳳凰堂はつくれるのになぜ羅生門は立て直せなかったのか。

それは、当時の富の多くが貴族や寺社に流れており、国家の財政は困窮していたからだ。

貴族や寺社が富を手にした要因は、743年に出された墾田永年私財法
この法によって、国が民に土地を貸し出して税を徴収するという律令制度が崩壊し、新たに開墾した土地は私有地として認められるようになった。

結果、有力な貴族や寺社が私有地を増やしていき、国に入る税は減少していった。

藤原氏をはじめとして貴族が栄華を極める中で、国家の財政は衰退していったのである。
その結果、現代で言うところの社会保障や公共事業が十分に行き届かなくなり、人々は困窮、羅城門は朽ち果てたままというあり様になってしまったのである。

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【目次】


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