#62 飛鳥時代は飛鳥に都があったのか?

奈良時代=平城京、平安時代=平安京、鎌倉時代=鎌倉幕府…というように、飛鳥時代から江戸時代まではその時代の都(幕府)があった場所=時代の名前という時代区分がある。
飛鳥時代以前は、縄文時代=縄文土器が使われていた、弥生時代=弥生土器が使われていた、古墳時代=古墳がつくられていた…というように、時代を特徴づけるものがそのまま時代の名前になっていた。そのため、厳密に言うと飛鳥時代になっても古墳時代は継続していることになる。一般的ではなくなっていったとはいえ、飛鳥時代後半の天皇である天武天皇や持統天皇の古墳もつくられているのだ。

さて、その時代の政治の中心地が時代の名前になってはいるのだが、飛鳥時代というのはその論理があやしい時代である。
飛鳥とは、奈良盆地の南端にある現在の明日香村付近をさす。推古天皇が飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)に都を移した593年から、平城京に遷都される710年までの時代を飛鳥時代と呼ぶ(始まりと終わりについては諸説あり)。しかし、この間にずっと飛鳥に都があったかというとそうではなく、孝徳天皇の時代(645~654)は難波(現在の大阪府)に、天智天皇の時代(668~672)は近江(現在の滋賀県)に都があった。詳細は以下のHPにまとめられている。

上記HPのまとめを見ると、飛鳥時代は天皇が代わるごとに都を移転していたことがわかる。『逆説の日本史』でおなじみの井沢元彦氏は次の動画で、飛鳥時代は首都移転時代だと指摘している。

そして、首都を移転した理由は天皇の死という「穢れ」を清めるためだという。しかし、天皇が崩御するたびに都を移転していたのでは不経済で国力が低下していってしまう。そこで、持統天皇が代々使用できるようにと藤原京を建設し、以降は首都がある程度固定されるようになっていった。
動画で紹介されているように、首都の移転と固定という視点で飛鳥時代を見ると、より理解を深めることができると思う。

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