#156 長篠城の走れメロス

長篠の戦いは、武田勝頼と織田・徳川連合軍の戦いで、教科書にも「長篠合戦図屏風」が大々的に登場する。

騎馬隊で突撃する武田軍に対し、織田・徳川軍は馬防柵で騎馬の進行を防ぎ、鉄砲を代わる代わる撃って武田軍に壊滅的なダメージを与えた。鉄砲を効果的に使った代表的な戦いとして教科書で紹介されている。

長篠の戦いの裏には、戦国版の「走れメロス」とも言えるストーリーがあった。そもそも、長篠の戦いの発端は、三河方面へ侵攻を行う武田軍が、長篠城を攻めたことである。

山奥にある長篠城を守っていたのは、武田から徳川へ降った奥平信昌である。家康の娘、亀姫との婚姻が決まっていた奥平信昌は、何としてでも長篠城を守り抜かなければならなかった。
城を取り囲む1万5千の武田軍に対し、城内の兵は500人。2本の川に囲まれた天然の要塞だった長篠城は長く持ちこたえていたが、落城は時間の問題となっていた。

そこで、岡崎城にいた家康のもとに援軍を求める使者として派遣されるのが、鳥居強右衛門(とりい すねえもん)であった。強右衛門は、深夜に川の中から武田軍の包囲を抜け出し、約50㎞(当時走ったルートは65kmとも言われている)の道のりを1日で走り抜き、家康に長篠の窮状を伝えた。
家康は織田勢にも加勢を要請し、長篠を救うことを決める。

援軍が来ることを伝えるために長篠城に戻る強右衛門だったが、城を包囲する武田軍に捕らえられてしまう。武田勝頼は、強右衛門に対して「援軍は来ない」と城内に伝えれば命は助けると取引をもちかける。援軍を諦めさせることで城内の士気を削ぐことを狙ったのである。
城の前に引き立てられ、磔にされた強右衛門は、「もうすぐ織田・徳川の援軍が来る、あと少し持ちこたえよ」と(いった意味のことを)力強く呼びかけた。すぐさま強右衛門は処刑されてしまう。しかし、強右衛門の決死の報告で援軍が来ることを知った城内の兵の士気は上がり、長篠城を最後まで守り抜いた。

強右衛門の活躍がなければ、長篠城は信長・家康の援軍が到着する前に落城していた可能性が高く、長篠の戦いは起きなかったかもしれない。
磔にされる強右衛門の姿は、後に旗指物として描かれ、現代にも伝わっている。強右衛門が磔にされた場所は現代でも残っており、近隣の駅は強右衛門もちなんで「鳥居駅」と命名された。

忠義を貫いた強右衛門のエピソードは歌舞伎の題材にもなっており、先日放送された大河ドラマ「どうする家康」でも、強右衛門の死は屈指の名シーンと言っていいだろう。

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【参考】


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