年上の女の人と暮らしていた話(フィクション)
むかし、年上の女の人と少しの間だけ暮らしていたことがある。
そのひとは当時バイトしていたカフェの常連で、世間話で自分が住んでいるシェアハウスに空きが出る話をすると、へぇ、住んでみたいな〜なんて社交辞令のようなことを言われて軽く受け流していたら、本当に住むことになったのだ。
彼女は彼女なりに悩んで決めたようだけど、じっさい引っ越すのを決める前にしたことといえば、日が暮れてからうちにきて、家賃と方角を確認して、2〜3時間話し込んだくらいだった。こんど明るいうちにまた見にくるね、と言ったきり、一度も日が差し込む我が家を見ることなく入居を決めてしまった。
不思議な距離感のひとだった。
シェアハウスの話をしたとき、そのひとは周りをきにしながらも声のボリュームはそのままに、「セッ……夜の営みはどうするの?」と聞いてきた。失礼だな、と思いながらそこではしないよ、するわけないじゃん、と笑いながら答えたら目をぎょろりと丸くして、そんなこと可能なのか、みたいなことを言っていた。初めて見る生き物と出会った動物のような顔をしていた。
そんなに歳は離れていないと勝手に思っていた。いわゆる年齢不詳の見た目をしていて、当時21だった私から見たその人は、23とか、24歳くらいに見えていた。何かのきっかけで年齢をきかれていて、27だよ、と答えていたのをきいて驚いてしまった。
その人も、そうだね、自分でも27はしっくりこないなぁ、25さいか、26くらいな気がする、と言っていた。
そのひとと話すようになってからしばらくも経たないころ、共通の友人がいることがわかった。男の人だった。
私にとってその人は少しだけ特別な存在で、いわゆるそういうアプリで知り合って一度だけそういう関係になったことがある。それは隠して話していたつもりだったけど、何となくそのひとには気付かれていたように思う。
しばらく経って、その男の人と旅行に行ったことを隠しもせずに話してきたのでぎょっとしてしまった。
この人って、いったいどんな価値観で生きているのだろう。同じひとと関係をもったことがある同士で住むなんて、ふつうだったら考えられない。ふつう、だったら。
私は同年代のなかではかなりませているほうで、性に対しても好奇心旺盛だし、高校生に入る頃から恋人のような存在が途切れることはなかった。それでも、恋人でない人と関係を持つことについて、なんの悪びれもなしに、そういえばご飯にいったよ、みたいにその人が言うのはいつまで経っても慣れなかった。
何日に引っ越すね、と言ったその日にそのひとは全然現れなくて、返信も返ってこなかった。
このまま引っ越してこないかもしれないなぁ、と思っていたら翌日の深夜にごめんね、体調がわるくて、と連絡がきていた。それから1週間くらい経ってから、ぽつんぽつんと荷物が運ばれてきて、こんな量の荷物はうちには入らないよ、と思っていたのに気づけばその人に連れられてやってきた家具たちは半年前からここにいましたけど、みたいな顔でおさまっていた。
そのひとにとって、時間という感覚はあまり重要じゃないみたいだった。私が午前中から用事を済ませてひと息ついていると、ボサボサの格好で起きてくる。お湯をわかして、せっかく沸かしたお湯に水道水を少し足してぐびぐびと飲んでいる。そのひとがそのひとらしくなる、というか、はきはき会話するようになるのは、だいたい夕方過ぎからだった。
部屋は離れているけど、本当にそこにいるのか心配になるほど一日じゅう物音が聞こえないこともあれば、こちらが眠れないほど誰かと電話し続けているような話し声が聞こえることもあった。
私は深夜1時ごろには寝るからそこからは消灯でお願いね、と言ってあるのに朝方まで物音が絶えなかった日は部屋の前に「昨日はうるさくてごめんね」と書いた紙切れとチョコレートが置いてあった。
朝方4時5時に酔っ払って帰ってくる音で起こされることもあれば、食器を全然洗わないし、ゴミも分別しない。私に隠れてタバコを吸った痕跡を見つけたこともあった。正直とても快適な同居生活とは言えなかった。
それでもその人が気まぐれで買ってきたプロジェクターで昔の映画を一緒に見ていると、信じられないくらい嗚咽したりびっくりしたり泣いたりするので、その様子を見ているのは面白くて、楽しそうだね、と言うのが口癖になっていた。
うちのベランダは部屋の狭さに比べて異様に大きかった。ある初夏の晴れた日、そこでご飯を食べようと椅子や机を引っ張り出してピクニックごっこをしたことがあった。
その日は日差しが強くて、去年しまったままの日焼け止めがどこにあるか考えていたら、そのひとは突然コンクリートの床に寝っ転がって、「自然岩盤浴、小学生の時によくやってた」と言ってそのまま寝てしまった。
日に焼けちゃうよ、と帽子をかぶせてあげたけど、シミなんて全然見当たらなかった。心の中でほんとに27なの、と思ったけど言わないでいたら、「来月28の誕生日を迎えたとたんにシミだらけになるんだ、私」と言われて、ひやりとしたのを覚えている。
梅雨のころ、1週間くらい家から出ている様子がないので部屋をそっと覗くと、鶴の恩返しのラストシーンのような、人間ってここまで部屋を散らかして、自分のお世話をやめられるんだな、というほどの状況になっていたことがあった。鶴は一生懸命働いていたからよいけど、その人は狭い部屋に無理矢理押し込んだセミダブルのベッドの上で泥団子のようになっていた。
話しかけても唸り声のようなものしか返さないので、コンビニでポカリと肉まんを買っていくと、ものすごい勢いでそれらを口に詰め込みながら、ありがとう、ありがとうねぇ、と言いながらぽろぽろ涙を流していた。たぶん1週間お風呂に入っていないのに、見た目もにおいも全然変わらなくて、汗をかかない星から来た宇宙人なのかもしれないな、なんて1リットルのポカリをあっというまに飲み干すその人を見てぼんやり思った。
本当によく泣く人だった。
一緒に暮らしはじめてから半年くらい経ったころ、その人が大勢の人間を連れ込んできたことがあった。
共通の友人以外の連れ込みや、夜深くまでの宅飲みはご法度の約束だった。そのひとはその夜、全部の約束ごとをやぶった。体の大きい"お友達"と言われる人たちは私のことなんて気にも留めず、目も合わせず、断りもなくリビングでタバコを吸って、ガハハと笑っていた。
さすがに言わなきゃ、と思って部屋を出てその人のところに行くと、いつも真っ白な顔からさらに血色が消えていて、普段は全然匂いがしないその人から強烈なお酒の匂いがして、焦点の合わない目で「ごめんね、仕事の関係で、どうしても断れなくて…」と滑舌だけはハキハキと言い訳をされて、そこからはあまり覚えていない。
翌朝、汚物にまみれたトイレとリビングの床で寝散らかる知らない人たちを見て、一緒に住むのはもう限界だと伝えよう、と決めてバイトに行った。
そのひとに会ったのはそれが最後だった。
私のいないうちに、そのひとの荷物がぽつん、ぽつん、とまるで来たときと同じように、少しずつなくなっていった。1週間くらいのうちに部屋からも、共有スペースからも、そのひとのものはどんどん消えていったけど、また、ずっと前からそうでした、元の姿に戻っただけです。そう言われているようだった。
やってくる時も、いなくなるときも、どうしてこんなに自然なんだろう。その時は怒りでいっぱいだったけど、きっとこの人とは一生会うことがないんだ、そう気がついた途端、リビングの床にへたり込んで声を出して泣いていた。
ふだん全然泣かないから、あれって自分の中ではものすごく大きなことだった。
それなのにあのひとがあんなに日常的に泣くから、いまさら私が泣いたところで何の意味もないように感じる。
シェアハウスの建物じたいが翌月いっぱいだったので、結局1人で暮らしたのは残り1ヶ月だったけど、その時だけは思いっきり遊んでやろうと決めて、いろんなひとを呼んでたくさんお酒を飲んでみたり、好きな男の子を何人も家に泊めたり、昼間に思いっきり歌ったりした。しばらく触ってなかったベースもめきめきと上達した。
退去の日、ベランダに出ると、雨風にまみれてグジャグジャになったニューバランスのスニーカーが落ちていた。
本当は私が捨てないといけなかったけど、見なかったふりをした。大家さん、ごめんね。
あれから2年と少し経って、私はVANSを履いているし、今日も午前中に起きている。昨日行った喫茶店で見覚えのある靴を履いた人を見た気がしたけど、見なかったふりをした。
※ この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。