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わりーやつ。アブドーラザブッチャー

そんな名前の猫がいた。

あの人はいきなりすごい決断をするひとで、いきなり猫を飼い始めたんだけど、でもやっぱり飼い続けられなかった。アブドーラザブッチャー。細っこくてちいちゃくて、クシャクシャの栗毛の猫は、プロレスラーの名前をつけられてあの人の部屋じゅうを駆け回っていた。


ツーバイフォーの角材で部屋一面が棚になっている部屋。人をダメにするクッションが2個も3個もあって、じっさいその部屋でたくさんの人がダメになった。

世の中の猫っぽいものとは大体ともだちだと信じ込んでいたのに、ブッチャーと初めて遊んだ後に私の白目はぶくぶくにふくれあがった。

朝まで六本木でみんなで飲んで、つぶれたあの人を部屋まで運んだ。猫がかわいくてかわいくて、当時の彼氏が怒るだろうなぁとおもいながらも眠い頭で下した判断は、ブッチャーと追いかけっこすること>彼氏の家へ帰ることだった。

遊びつかれて眠気も限界、あの人が寝てるベッドに倒れこんだ。あの人が足の先をちょこっとだけ私の脚に乗せてくる。

「しゃか〜…しゃかは〜、、しゃかはさぁ〜…。おれさぁ、あのさぁ…、しゃかはさぁ…」

あの人とあんな風にベッドに並んで寝たのは後にも先にもあの時だけだ。


しっかり酔っ払っていて、なにを言ってるかぜんぜんわからなくて、さっきの会話の続きをしたいんだろうけど、圧倒的にねむいことだけが伝わってくる。

私も私で、「うん〜…?」と言いながら(わ、この人にぜんぜん性欲とか湧かないな。なんだこの同族感…?)と思っていたらいつのまにかぐっすりねむっていた。起きたら白目がゼリーみたいになっていて、じぶんの猫アレルギー発症を知ったのだ。

起きると目が開かないので、ぎゃあぎゃあひと騒ぎした。もう無理、動きたくない。
どう考えても猫のいるこの家から脱出するのが最善策なのに、私は人をダメにする部屋から出たくなくなってしまった。

あの人はコンビニでサンドイッチと飲み物を買ってきてくれて、「おれ、バイト行ってくるね。かぎあけっぱでいいよ」とこの街で1番のネアカだけが働けるハワイアンな飲み屋に向かっていった。

キッチンにならぶ、ありえない種類のGABANの調味料。思い立って買い揃えたであろう誰も損しないコレクションをぼんやり眺めながら、全粒粉のサンドイッチをちまちまかじった。



人生で、異性に「キレる」という行動をしたのは、この人だけだ。
私は1年浪人していて、あの人は同い年の先輩だった。同じサークルにいながら、何度注意しても後輩の家で大音量の音楽をかけて騒ぎまくる姿が、どうしてもその日は許せなかった。
人の“胸ぐら”なんてどうやって掴むのかわからなかった。それでもなんとなくそこらへんをつかんで、壁に押しやった。
あの人は全く抵抗しなかった。

「しゃか、ごめんね、おれ、ほんとはしゃかにきらわれたくない。しゃかのこと大好きなんだよぉ」

私は思いつく限りに罵倒する言葉を浴びせた。

友情としての“大好き”をくれたひとだった。それがどんなにずるいタイミングだったしても。

たしか、大学4年になろうとしている頃だった。
その頃を境に、あの人が開催する集まりに顔を出す機会はめっきり減ってしまった。

ブッチャーはいつのまにか、あの人のおばあちゃんに引き取られていた。

その年の秋にあった私の初舞台、そして翌春の舞台と、あの人はかならず連絡をくれ、観に来てくれた。

あの時はごめんね。まだあの人が生きてたとして、今の私はごめんねって言えるだろうか。どんなに想像しても、ばかやろうと言ってしまう。



人がダメになるあの部屋から、誰かを探すように外を覗く姿。木漏れ日が栗色の長い髪に反射している。

あの人に性別は感じられなくて、きれいな肌やすらりと長い手足にどぎまぎすることさえある。女の子の爪やうぶ毛、毛穴やにきびをよく見ている。ビー玉みたいな瞳に覗きこまれたら最後、どんなおそろしい願いも聞き入れる以外の選択肢はない。10歳みたいな喋り方なのに、あの人の質問はひやっとするほど的を得ている。あの人は本当にものすごくうつくしかった。

美しすぎるものへの畏れみたいなのを払拭できないまま、私はただただあの人の遊び方や喋り方をまねしたり、もうぜったいできない遊びをしたり、めっちゃ怪我したり、けんかしたり、もう遊ぶことはないなと思ったり、していた。

満開の桜の木の下で、大好きな友人に囲まれて。眠るようになんて、ずるいよ。

お葬式は、人が入りきらなかった。



あの人の周りをグルグル走って転んで、バリバリのコンクリートでむけた左膝のきずあとが、めちゃめちゃ痒い。

ブッチャー、もうすっかり大きくなりましたか。
まだこの名前で呼ばれていますか。



ブッチャー、元気でやっていますか。






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