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祖父の葬儀

※1934字


私が中学2年生のときに、祖父が亡くなった。

私が読書をするのは、祖父が読書家だったからだ。
「おじいちゃんっこ」と言われるほど、
私は祖父にべったりの子どもだった。



という書き出しだけど、これは全然ほっこりするような内容じゃない。
私の軽薄さや愚かさを可視化して、受け入れるための文章。

祖父はアスベストで死んだ。

ニュースでちょうどアスベストが話題になっているときに、
ちょうど、アスベストで肺癌になって、死んでしまった。

葬儀について家族と、葬儀屋さんとで話し合っている時に
「孫から祖父母へ手紙を読むのは定番ですよ、おじいさんもきっと、およろこびになると思います」と言われ、私は葬儀中に祖父宛の手紙を読むことになった。

正直、人前で手紙を読むなんて恥ずかしいし荷が重いので断りたかったけれど、14歳の私は「世間的に良い」とか「やるべき」とか「亡き人がよろこぶ」とかそういう類の押し付けに対して断る術を持っていなかったので、言われるままに引き受けた。



手紙を読むということは、手紙を書かなければいけない。
文章を書かなければいけない。 

葬儀中に、親戚や祖父の知り合いたちの前で『祖父に宛てた手紙』を読むのは、どういう感じなんだろう。というか、どう言うことなんだろう。それって誰の、なんのためなんだろう・・・

『祖父宛の手紙を読む』という儀式はいったい、だれにとって、どんなメリットがあるのだろう・・・・祖父は死んでしまったのに。

と、14歳なりに考えた結果
『葬儀にきている大人を泣かせればよいのだろう』という結論に至った。
祖父は死んでいるのだから、これは祖父のための儀式でないことは明白だ。と、私はおもった。

もしも私が祖父の立場なら、
「どうしても伝えたいこと」なんて生きてるうちに言ってくれよと思う。

というわけで私は
『生きてる大人をなるべくよろこばせるための手紙』を書くことにした。



もう16年も昔のことなので、大体しか覚えていないけど、
「短すぎず、長すぎず」
「真実味をもたせるためにちょっとしたエピソードを添えること」
という二点を意識して手紙を書いた。

「真実味を持たせるため」ということからわかるよう、手紙の内容はほとんどでっちあげだった。
ただ、経験則として「本当を混ぜた嘘はバレにくい」ということもわかっていたので、全部嘘だったわけじゃない。ほんの少しだけ本当だった。

それで、それっぽい言葉をつかって、適当に仕上げた。

『おじいちゃんから教わったこと』というテーマで書き上げられたでっちあげの手紙は葬儀でたくさんの大人を泣かせた。
読んでいるうちに、つい、自分も泣いてしまったので、その瞬間にもたくさんの大人が啜り泣きをはじめる音が聞こえた。

「こんなの作り話なのに。おじいちゃんほんとごめん」って思いながらとりあえず責務を果たした。

改めて思い起こして、感じるのは、
やっぱり「真実かどうか」なんて関係ない。

手紙でたくさんのおとなたちが泣いたけれど、
おとなが泣いたのだって、私の思惑通りに「感動して泣いた」とは限らない。
私の手紙がでっちあげだったのと同じように、大人の涙だって『でっちあげ』のようなものだったのかもしれない。
本気で泣いていたとしても、結局は14歳が書いた偽物のエピソードで泣いているのだから、なんだか、いろんな種類の泣き方のなかでもわりと低い位の涙に感じる。(この場合は、私が全面的に悪いのですが・・・)

「感動させればいいんでしょ」という14歳の欺瞞を見破れないおとなばかりで、世界が構成されているわけない。
「なんとなく雰囲気にのまれて泣いた」とか「演技的に泣くのは容易い」とかそういう泣き方のひともいただろうし、「14歳ががんばって泣かせようとしている姿勢に感動した」というようなパターンの人もいたかもしれない。

それにもし、私が真実だけを書いていたら、
家族くらいしか泣かないと思う。

私が本当に大切に思っている記憶は、祖父とした他愛もない会話や、言葉にできないような、行動で示してくれた優しさやつよさだと思う。
それを、手紙にかいて、知らない人に教えてあげたりしない。というか、本当に他愛もなさすぎて書けない。今でも書けないのに、14歳の私に書けるはずない。
「書けない」と感じたことはよく覚えている。

他愛のなさが祖父と私のエピソードにおける『つよみ』なのだから、他人の前で読む手紙になんて書けないよ。



結局のところ、手紙はうそっぱちで、私は欺瞞に満ちた中学2年生だったけれど、
祖父のことをよく思い出すし、祖父の影響で始めた読書はいまでも私を支えてる。救ってる。これからもそうだとおもう。


おじいちゃん、孫が私でごめん。

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