あるAセクシュアル、不安になる

  半年にわたる転職活動を無事に終え、理不尽なことしかなかった漆黒企業ともお別れし、新天地で新たな人生を始めた。興味ある仕事を自分で選び取り、初の電車通勤にも少しずつ慣れてきたところだ。自分の人生を、ようやく進める。だがそう思っていたのも束の間、新たな不安が生まれてきた。この先どうやって生きていこうか、という漠然とした不安だ。

 私は、「世間一般の人たち」(これも誰のことを指すのか分からないけれど)と違うところがいくつかある。そのうちの1つが、恋愛をしないということ。20代も残り数年になったが、今のところ恋愛とは無縁の生活を送っている。

 正直なところ、恋愛をしない生き方は自分に合っているし、気持ちの面でも楽である。私には週末だけでは足りないくらいのたくさんの趣味があるし、自分の好きなことはたいてい一人で楽しみたいと思う。それに、一人でいることはそんなに苦ではない。誰かと話したくなったら、友達と電話したり、どこかで会ったりする。それで十分だ。自分のことや自分の好きなことを否定せずに受け止めてくれて、一緒にいて楽しいと思える友達が何人かいれば、それでいいと思う。私は私の人生を進みたい。友達はそれぞれの人生を進んでほしい。いたってシンプルな考えがそこにある。

 しかし、気にしないようにしていても気になってしまうのが周囲の人たち。前の会社では20代後半で未婚の女性はほぼいなかった。20代前半で結婚してその後数年も経たないうちに出産するのが前提というか、もうそれが当たり前のような空気があり、私は居心地悪い思いをしていた。それがその地域の特性なのだろうから仕方ないことだと諦めていたが、自分がまるで規格外品のような気持ちになるのが常であった。だからこんな田舎すぐに出て行こうといつも思っていた。一方で今の職場は、前に住んでいたところよりもかなり都会にあるのだが、それでも未婚の人は少数派なように思う。幅広い年齢の人たちが働いているから、まあそうだよなと思う。でも、結婚していることが当たり前な空気はないし、自分のことを詮索されることもないので、気持ち的には過ごしやすい。

 

 恋愛して結婚して家庭を持ち子どもを産み育てていくこと。私の人生の中には今のところその予定はない。というより最初からその希望もない。自分にとってはどうもそうしたことは異質なものなのだ。私がするのはなんか違うな、と思ってしまう。

 なぜそう思うのだろう? ということを考えてみたときに、おそらく多くの理由があるのは確かだ。だからその1つ1つをできる限り取り上げて、内省してみる。

(1)恋愛感情とは?

 そもそも「恋愛感情」がよく分からない。たぶん恋愛感情とはどういうものなのかと街ゆく人たちに聞いてみれば、人によって違うのだと思う。「こういう感情です」とたったひとつの定義があるわけではないと思うし、そうやって定義できるほど単純な感情ではないのだろう。

 もっと言えば、人を「恋愛的に」好きになるという気持ちがよく分からない。私は無性愛者だが、Aロマンティックなのかロマンティックなのか分からない。どういう「好き」が、「恋愛的な好き」になるのか自分では識別できない。人を好きになることはある。でもこれは、「0.00000…1%でも自分のことを受け入れてくれた!」→「自分にとって害のない人だ!」→「この人は良い人だ! 好きだ!」という気持ちなのだ。その後、趣味の話で盛り上がったり、カラオケに行ったりして、「この人といて楽しい!」と思えれば、その人との交流は可能な限り続いていく。それ以上でもそれ以下でもない。

 

(2)付き合うとは?

 ついでに言うと、「付き合う」ということが分からない。小学生の頃から、クラスの誰と誰が付き合っているだとか、恋バナで盛り上がる周囲の人たちを見てきた。私はそういう話題に対しては「へー、そうなんだ」と流してきた。誰と誰が付き合ったっていいじゃない、私には関係ないし…。というか、そもそも「付き合う」ってどういうこと? なぜ、人と人は付き合うのだろう? 付き合う理由って何だろう? 付き合っている人たちは、付き合うことで、何を得るのだろうか? 

 私の場合。付き合う理由…、とくにないのです。99.9999…9%ないけれど、もしも誰かと付き合うとしたら、趣味や考え方、生き様が似ている人と付き合うと思う。その人とは、毎日ではなく、たまに、忘れた頃に連絡を取り合う。そこでお互いの近況や、最近ハマっているものを言い合ったりする。それで、その人に紹介された新しいコンテンツに触れ、私の文化的生活が少し豊かになる。以上。…これって、友達と変わらないのだ。だったら友達のままでいいや、となる。

 

(3)付き合ったらなぜ性的な関係になる?

 本当に分からないのが、なぜ付き合うことと性的なことを実践することが両立するのかということだ。

 私には10代の頃から強迫症の不潔恐怖や汚染恐怖があり、性嫌悪も強めである。さらに、堅固な自他境界がある。自分の領域を侵されることはツライ。そのため他人と触れ合うのは相当の覚悟が必要、ましてや粘膜接触なんてもってのほかである。私は創作をしているので性描写も描くことがあるが、私個人としては、付き合っても性的な関わりはしたくない(できない)し、そういうことを実践するのはなんか違うと思ってしまう。

 

(4)自分の身体が好きではない

 私は普段、自分の身体をほぼ意識していない。表現するのは難しいが、脳と目だけで生活しているような感覚なのだ。まあ、寝ぐせがついていたら直すし最低限の身だしなみは整えるけれど、自分の身体に意識が向かないせいか、靴ずれで出血していても家に帰って靴下を脱ぐまで気づかないこともある。自分の顔に興味もないので(お金をかけたくないので)、化粧もしない。

 自分の身体が好きではない。たまたま女性の身体をもって生まれてしまった、という事実があるだけ。ただ、これも病院で染色体検査をしたわけではないから本当に女性の身体なのか分からないが、見た目の性別が女性であるというだけ。しかし本人は自分の女性の身体は気に入っていないし、自分のことを女性だなんてこれっぽっちも思っていないのだ。

 

(5)他人と深く関わりたくない

 父は毒親である。私はものごころついたときから、モラハラ、洗脳、過干渉、価値観の押し付け、人格否定…といった様々な心理的虐待(と今ならいえる)を受けてきた。暴力はなかったけれど、精神的には数えられないほど傷つけられてきた。はじめて接した大人の男性がそんな人だったから、男性不信は子どもの頃からごく自然に植え付けられてしまった。世の中そんな男性ばかりではないことにも少しずつ気づいてはきたけれど、男性と深く関わろうとは思わない。

 それなら女性ならいいのかと言われたら、それも微妙ではある。詳細は書けないが、そう思うようになる出来事が少なからずあった。

 結局、誰であってもドライな関係というか、くっつきすぎず離れすぎずの関係が、自分には合っている。

 

(6)依存、束縛されたくない

 私には、精神的にも身体的にも自立していたいという思いが根強くある。そのため、誰かに依存されるのも束縛されるのも精神的に参ってしまう。恋愛や結婚をするとなると、相手に依存されたり、身も心も自由を奪われたり、といったことが多々あるのだと思う。

 

(7)良いイメージがない

 私の周囲に、恋愛や結婚生活がうまくいっている人がほぼいない。そもそも、私の育った家庭は機能不全家族であり、私の父母は結婚しない方が良かったと、自信を持って言える。価値観が180度違うので、口を開けば口論になる。しまいには家庭内別居。お互いがお互いを憎しみ合っている。離婚した方が良いと思うが、事情があり離婚できずにずるずるときてしまっている。それが私がいちばん近くで見てきた「結婚生活」の成れの果てである。こんな家で育って、恋愛したい、結婚したい!なんて思うはずもない。

 

(8)自分が結婚する意味がない

 まず、婚姻届を出せない。「妻になる人」の欄にすんなり自分の名前を書けない。「女性」の欄に名前を書けない人が、「妻」の欄なんて…レベルが高すぎる。誰かの「妻」になんてなれない。結婚しても、「妻」の役目は担えない。「女」の役割、「妻」の役割、「母」の役割、すべて自分は引き受けられないと思う。そのため結婚する意味が見いだせない。

 そもそも現在の日本では戸籍上女性は戸籍上男性としか、戸籍上男性は戸籍上女性としか結婚できないということが窮屈に感じる。私は通常の結婚よりかは、パートナーシップ制度の方が気持ち的に受け入れやすい。パートナーシップ宣誓書の氏名欄からは、戸籍上の性別の役割を押しつけられている感じがしないからだ。

 

(9)反出生主義

 生まれてこなければ良かったと思うことは過去に何度もあった(最近はあまりないが)。生まれたくて生まれてきたのではなく、気づいたら地球に存在していたという事実あるのみ。そして、生まれ育った環境は、よほどのことがなければ自分の力では変えられない。私はこれから生まれてくる人たちにこれ以上つらい思いをさせたくない。だから、子どもを産むことはしない。そのかわりに、今、生きている子どもたち、今、生きている人たちが生きやすくなるように、少しでも自分ができることをしたい。

 

(10)お金がない

 恋愛、結婚、出産、子育てには本当に多くのお金が必要になる。その分のお金が出せるほど自分は稼いでいない。やはりある程度の経済力がないと、そこまで辿り着けないと思う。まずは自分の給料は自分のために使いたい。

 

 きりがないのでこの辺で終わりにするが、こうやって書いてみると、それなりの理由があるのだなと感じた。鬱々とした連休を過ごしたのだが、先日、友と久々に電話したらそれだけで嬉しくなって、これからも生きていこう、と思った。将来のことは不安だけれど、不安になりすぎて、「今」が見えなくなってしまったら元も子もない。せっかく自分の人生を進み始めたのだから、自分の道を行けばいいじゃないか、と気づくことができた。『そばかす』も観に行きたいし。