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珈琲の大霊師019

 モカナは、一人壁に耳を当て、水の音を聞いていた。
 
 脳裏に浮かぶのは故郷の景色。緑の山、白の山に囲まれた小さな集落。モカナの家は、村の外れの川辺にあった。モカナにとって、水のせせらぎは、子守唄のようなものだったのだ。

 裏の林には動物が沢山住んでいて、皆モカナと仲良しだった。
 
 モカナの家は、コーヒーの木を栽培する一家だった。モカナも、生まれた時からコーヒーの焙煎の香りに包まれて生きてきた。
 
 そんなモカナが、人にコーヒーを入れるようになるまでさほど時間はかからなかった。
 
 いつだったか、珍しく村に外の人が来た事があった。すると、外にはコーヒーが無いと言う。そんなもったいない話は無い、そう思ったモカナは、コーヒーを広める旅に出る事を決意したのだった。
 

 思い出している内に、不思議な事に気づいたモカナは、少しだけ首を捻った。
 
 そういえば、あの村は何と言う名前だっただろうか?
 
 場所は、どこだったのだろうか?
 
 いくつかのコーヒー豆だけを腰に結んで飛び出してきたモカナだったが、何か妙に忘れている気がした。
 
 そもそも、地図も持たずに続けてきた旅なのだから、今どこにいるのかも知らないし、そもそもモカナは地図というものを知らなかった。
 
(……帰ろうと思えば帰れるよね)

 と、モカナは思考を絶った。何か、考えてはいけない事に当たってしまったような、そんな直感があったのだ。
 
 とにかく今は、外でコーヒーを作り、美味しい水を作れるようになること。
 
 モカナは、改めて目標を定め、僅かな違和感は頭の隅からおいやられてしまったのだった。

 屋上に到着した一行は、モカナの指示で麻袋を切って伸ばしたものを屋上に敷き詰めた。様々な模様の彫られた床に敷き、重り代わりのレンガを載せる。
 
 その作業が終わると、モカナはざる一杯のコーヒー豆をザーッと麻の上に空け、説明した。
 
「ここに豆を重ならないように敷いて、天日干しするんです」

 言うには簡単。すぐに理解できる。だが、実行するのは簡単とは言えなかった。

 地味だが、重ならないように豆を均すのは重労働なのだ。一斉にコーヒー豆を開ける時は、爽快感があるが、その後の目を凝らしながらの均し作業は根気がいる。

 普段はあまり細かい事を気にせず、鷹揚なモカナだが、この時ばかりは厳しい目をしていた。

「あ、ゴウさん!そこ、もう少し均して下さい!」

 ビシッと芯の通った声が屋上に響き渡る。普段のどこかぼけたような声は微塵も感じられない。

「おっと、目がいいな。良い弓士になるぞ」

 ゴウは笑って言われた通りに丁寧に足元の豆を均す。ジョージは、よく怒らないなと不思議に思っていた。

「ボクはコーヒーを極めるんですっ」

 真剣な顔でぎゅっと拳を握るモカナ。その頭に、ゴウのごつい手が乗った。

「ああ、頑張れ」

「はい!」

 そのゴウの目は、実に楽しそうで、どこか嬉しそうにさえ見えた。まさかと思ったが、ジョージは確かめてみる事にした。

「お前、ガキに興味があるのか?」

「……殴るぞ」

 鬼のような顔をされて、ジョージは冗談冗談と両手の平を相手に見せて悪意が無い事をアピールをした。
 
 気づくと、さりげなく話を聞いていたルナにも冷たい目で見られていた。

 ゴウが、腰布から布に覆われた何かを取り出す。布を解くと、艶やかな光を放つ小刀だった。この光に、ジョージは見覚えがあった。

「こりゃ、ダマスクスか?……業物だな」

 幾つもの金属を合わせて打つダマスクスの武器は、火の精霊の神殿がある大陸北方の火山地帯のごく一部の鍛冶職人しか扱っていない貴重品だ。「その硬度、比類なき龍の牙」とまで謳われる名産品。それも、ゴウが持っている物は余程腕の立つ者が鍛えたと見え、独特の模様をすらりと削り取ったような白い刃が日光を鮮やかに照らし返していた。

「三代目、ギルク=ロウの逸品だ。俺は元々あっちの出でな。親方とも仲が良かった。俺が、この街の衛兵に決まった時、早朝に呼び出されて目の前でこいつが鍛えられるのを見た。出来上がったばかりのこれが、俺の着任祝いだった。あの娘、親方と同じ目をする。きっと、良い職人になるぞ」

「……コーヒー職人か?」

「そうだ。コーヒー職人だ」

 真面目にゴウが答えるので、ジョージは一瞬笑いそうになったが、すぐにその笑いは消えた。

 誰よりそのコーヒーの魅力に取り憑かれているのが、自分だと言う事に思い至ったのだ。

「……ちげえねぇ」

 少し間をおいてから、笑って答えたジョージの目は、笑っていなかった。じっとカップに注がれるコーヒーを見るモカナの姿を思い出したからだった。
 
 時が一瞬止まったかのような緊張感に飲まれ、呼吸を忘れた事を、ジョージは思い出したのだった。

 その日から、1ヶ月もの間、モカナはコーヒー豆の世話を焼きながら修行に励んだ。
 
 ジョージも毎日のように訪れ、作業を手伝った。最初は手伝っていたリフレールやルナだったが、巫女本来の仕事との時間の兼ね合いが取れず、来れなくなっていた。

 ゴウも非番の時は必ず顔を出していた。ゴウのモカナを見る目は、優しく、どこか誇らしげでジョージにはそれがなんだかむず痒く感じられた。まるで、ゴウがモカナに弟子入りしたかのような目だからだ。

 ジョージにとってモカナは、いつまで経っても出会った時の、偶然命を助けた程度の関係だと思っていたからだ。
 
 だが、ゴウの言う事も良く分かる。モカナは、ことコーヒーに向かう時だけは誰よりも真剣で神経質だった。その張り詰めた、混ざりものの無い純粋な空気の中ではジョージは一言も口を利けなくなる。

 モカナの修行の様子は、ルナやユルから聞いていた。毎日水宮に通っていると、モカナ経由で様々な巫女と親睦を深める事ができた。ユルもその一人だ。
 
 モカナは、修行が始まるとただひたすらに水を作る。水を作るというのは、水霊にとって最も基本的な能力だ。といっても、通常は無から作り出すのではない。空気中の水分や、精霊の影響範囲にある水を呼び寄せるものが主流だ。
 
 モカナが行っているそれは、水でないものから水を作るという魔法だ。空気、土といったものから水を構成しうる要素を抜き出し、合成し、水にする。これは、本来かなり上級の巫女が修行する魔法である。
 
 しかし、モカナが美味しい水を生み出す事にしか興味が無い為、「水を生み出す」事に修行内容も特化しているのだ。
 
 そもそも、「水を呼ぶ」程度の事は簡単にできてしまったから、その次の「生み出す」段階に進めたのだが。

「お前が来ると、モカナさんの調子が良い。毎日、早上がりして来い。話は通してある」

 という、ユルの支援もあって、ジョージは毎日のようにモカナとコーヒー豆の様子を見に来る事ができているのだった。

 最初にモカナが生み出した水を飲んだ時は、土臭くてとても飲めたものではなかった。
 
 2日目、同じものを飲んだ時、確実に土臭さは減っていた。コーヒー豆の様子を見ていない時は、本当にそれだけを修行しているのだ。
 
 ドロシーも文句も言わず、良くそれに付き合っていた。といっても、当人には文句を言う理由も無いだろう。修行している最中のドロシーとモカナは、自身が透き通った湖底の水であるかのように澄み切っていた。コップ一杯の水を作るのに3時間かける時もある。その一杯の水を、モカナが飲む時、ドロシーは誇らしげに笑うのだった。それだけで、ドロシーには十分なようだった。

 光陰矢のごとし。
 
 コーヒー豆を日干しにし始めてから1ヶ月の時が過ぎ、その日屋上を訪れたモカナの真剣な目が、久し振りに笑った。
 
「できました!これで、コーヒーが淹れられます!!」

 モカナは大はしゃぎでコーヒー豆を麻袋に詰め始めた。その嬉しそうな顔に、ゴウ、ジョージ、リフレール、ユル、ルナも嬉しくなり、皆で大騒ぎをしながら豆を詰めていった。

「ほいほい。どいたどいた!!どんどんいくぞ!」

 ゴウは、両脇に大きな麻袋を抱えて次々に昇降機の入り口に並べていった。

「やれやれ、なんだか長かったねぇ。1ヶ月もかかるなんて思わなかったよ」

「ボクも、もっと早くできると思ってました。やっぱりボクの村と比べて、風が湿っぽいのが関係あるかもです」

「色々考えてやってるんですね」

 リフレールは、そう言ってモカナの髪を撫でた。リフレールは嬉しそうに笑った。
 
 祭りのように賑やかな詰め作業の後、その麻袋は一度厨房の倉庫に保管される事になった。

 翌日、ジョージがいつもより早く水宮を訪れると、厨房には深刻な顔で佇む、モカナの姿があった。
 
「あ、ジョージさん・・・。どうしよう・・・、ボク、こんなの、ボクの珈琲じゃない」

 その両目には、今にも零れそうな大粒の涙が溜まっていた。

「どういうことだ?」

 モカナの表情から、ジョージは瞬時に事の深刻さを読み取った。一大事なのだ。

「………」

 無言で、カップを差し出すモカナ。ジョージは、それをすぐに掴むと、「あの香り」を求めて鼻面に持っていった。
 
 そして、思い切り香りを吸い込む。あの、甘美な香りが胸の中に広がるはずだった。
 
 が、その期待は裏切られた。

 あの、脳の芯まで痺れるような、溶かされるような香りではない。それよりもっと果実のような香りが強く、複雑で芳醇だった香りはせいぜい4つか5つの香りしか感じ取れない程の単純な代物になっていた。
 
 続いて、慎重にそれを口に含む。
 
 ジョージに、衝撃が走る。
 
 酸っぱい。酸味があるのだ。何日も置いた果実のエキスを思わせる酸味。これは、ジョージの知るコーヒーには存在しなかったものだ。
 
「なんだ……?こりゃ……」

 美味しいとは言えない。酸味のせいなのか、あの絶妙なバランスのコクやアロマが完全に崩れていた。

「ごめんなさい……。ジョージさん、ごめんなさい……。一番、最初に、飲んで…ほし……」

 モカナは泣いていた。この1ヶ月、モカナはコーヒーの管理に全力を尽くしてきたのだ。それは恐らく、故郷での管理と同じだけの精度があっただろう。モカナが手を抜いているとは、ジョージには到底思えなかった。

「ボクのせいだ……」

 それでも、モカナは自分を責めた。他に責める当てなどあるはずもない。この街に珈琲を持ち込んだモカナ自身ができなければ、他の誰にもできないのだから。

 しかし、ジョージは違った。ジョージは、失望しようとする主観を押さえ込み、論理的な思考を巡らせた。
 
 あの珈琲という、極上の一杯とは、そもそもどういう過程を経て作られる物なのか、モカナの傍で見ていたその映像を高速で振り返り始めたのだ。

 一粒一粒豆を見つめるモカナ。瞬きを忘れたかのように金網で焙煎するモカナ。慎重に火加減を調節するモカナ。

 カップ一杯に注ぐその真剣な眼差しを、ジョージは思い返していた。

 やはりその過程に、一瞬たりとも油断があったようには思えなかった。モカナは、常に珈琲に対して真剣なのだ。

 となれば、問題はモカナのやり方には無いのではないか?という疑問に至る。
 
 とはいえ、では何が問題だったというのか、ジョージには分からない。ならば、分かる人間に聞けばいいのだ。誰が分かるのか?それも知らない。
 
 知らないなら、調べれば良い、探せば良い。
 
 ジョージの心は決まった。
 
「モカナ、答えを探しに行くぞ」

「え?」

「お前が知らない事でも、この広い世界には必ずそれを知ってる奴がいる。そいつが、答えを持ってる。何でも自分だけで解決しようとすんな」

 ジョージは、モカナの頭にポンと手を置いて笑いかけた。モカナの顔がぐしゃっと崩れ、その手をモカナの両手が押さえる様に包む。

「でも、どこにその人がいるか、ボク、分からな」

「知ってる奴がいるまで探すんだよ。意外と近くにいるかもしれねえだろ?この街だって、隅々まで知ってるわけじゃねえんだ」

「で、でも、ボクなんかの為にそんな事……」

「おい……、勘違いすんなよ?」

 ギロリとジョージの目つきが変わる。モカナを睨むように射竦めた。

「お前の珈琲は、俺の珈琲だろうが」

 え?と、モカナが目を丸くするのを見て、ジョージは補足が必要だと即判断した。
 
「お前の命の恩人は誰だ?」

「ジョージさんです」

 モカナの答えには迷いが無い。本気でそう思っているからだ。実際には、モカナは様々な人の助けを得ているにも関わらず、だ。
 
 その迷いの無さに少し面食らったが、ジョージは続けた。

「そうだな。俺がいなけりゃ、お前の珈琲も無い。だから、お前の珈琲は俺の物だ。違うか?」

「あ」

 うんうんと、感心したように首を縦に振るモカナに、ジョージは「こいつ絶対騙されやすいな」と素直な感想を口にしそうになった。

 決心を固めて、再びモカナが淹れた珈琲を口に含む。あの至福の味には遠く及ばない。
 
 一ヶ月前、当たり前のようにその珈琲を堪能していたジョージは、それが替えられない一滴だったのだと、実感した。

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