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兵は国の大事-兵法孫子を学ぶー


はじめに


※兵は国の大事-兵法孫子を学ぶーというタイトルにしたのは「私が兵法孫子を学ぶ」という意味であり、あくまで個人的な見解であることをご了承ください。

このnoteで書きたいことと言えば、非「政治」の領域であり、文化や芸術・文学について語りたいと先刻表明したばかりである。しかるにいきなり「孫子」について語るというのは大変申し訳ない。

もっと風雅な話題について語るべきなのだが、私の本棚は自己啓発書、東洋占術の書、英語学習の書などが多数を占めていて、文学関係の蔵書は三島由紀夫の「潮騒」と「古今和歌集」を除いては、皆無に等しかった。

では三島由紀夫や紀貫之を語れるくらいに知っているのか?と問われればNOである。私の文学的教養のなさに心底がっかりする。

そこで何故「孫子」なのかというと、なんとか自分の意見を付け加えて語るくらいには読み込んでいるからである。仏教の抹香臭い話をした後に「殺し合いの極意の書」である「孫子」を語るなんで呆れた奴だと思われる方もいらっしゃるだろう。

さはさりながら、英語の勉強の片手間にそれなりの質の高い文章を書こうと思うと、とりあえず「孫子」ぐらいしか語るテーマがないのである。

このテーマを語るのでさえ私には荷が重い。しかし、何とか頑張ってみようと思う。


始計篇

孫子曰、 兵者国之大事、 死生之地、 存亡之道、 不可不察。

孫子曰く 兵は国の大事にして、 死生の地 存亡の道なり 察せざるべからず。

孫先生はおっしゃった。戦争は国家の一大事である。生きるか死ぬか国家の存亡のかかっていることなので詳しく調査しないということがないようにしなければならない。

孫子のあまりにも有名な冒頭部分である。私はこの漢字21文字に孫子の言いたいことの99.9%は言い尽くされていると言っても過言ではないと思っている。それこそこの21文字が「孫子の兵法」の通奏低音をなしていると思う。

すなわちそれが「戦わずして勝つ」であり「百戦百勝は善の善なるものにあらず」であり「兵は詭道なり」であり「囲師は周することなかれ」である。

孫武はシナ大陸の春秋時代の人である。春秋時代とは周王朝の東遷に始まり三晋の分裂に終わる時代区分である。

※シナ大陸(中国大陸と表記すると現中国の領土全体を示すような誤解を与えるので原中国の九州の領域、すなわち北は始皇帝の万里の長城、西は甘粛省、南は四川省、広東省、東は黄海までの広大な土地をシナ大陸、シナ世界とここでは呼ぶこととする。)

シナ大陸で最古の王朝とされるのは「夏」である。二里頭文化が「夏王朝」であると推定する説があるが、まだ実在が確定していない王朝である。「夏」の次に「商」または「殷」と呼ばれる王朝が起こった。こちらは実在したことが確定している王朝である。商王朝では「亀卜」という占いにより王の政策が決定されるという神権政治、祭祀政治を行っている国であったらしく、占いに使われたおびただしい数の亀の甲羅や鹿の骨などが見つかっている。王に使えるシャーマンはこれら甲骨を火であぶり、それに入ったひびの形や向きで吉凶を占ったのだという。

さて、この商王朝は黄河流域の中央部を支配していたが、陝西省に起こった周という新興勢力に滅ぼされてしまった。周王は血族と商王朝を倒すのに功のあった家臣たちをシナ大陸各地に領主として派遣した。

その後周王朝の力は弱体化していった。そしてある時、周王朝の内紛が起こり、それに異民族が介入し、周王室はもともとあった鎬京という都追われることになった。そして周はその後洛邑に都を遷した。これが「周の東遷」と呼ばれる事件である。

この古代史上の大きな事件はゆるやかにシナ大陸を支配していた周王朝の権威を大きく失墜させた。この当時一説に大小200余国諸侯国があったとされるが、誰も宗主国である周王朝に従わなくなってしまった。

周王朝の抑えの効かなくなった諸侯国は互いに相争い、春秋時代に戦乱が止むことはなかった。「春秋に義戦なし」という言葉がある。孟子の言葉のようだが、春秋時代の諸侯国は互いに正義を主張しあい激突し、200余国あった国家は戦国時代には韓・魏・趙・斉・燕・秦・楚の7大国に集約されることになる。

孫子の著者であるとされる孫武はこの春秋時代の斉の国の出身であるという。揚子江下流域にある呉という国に将軍として仕え、多くの戦功をあげやがて自らの戦争のノウハウを孫子に著した。

その孫子が一番最初に訴えたかった事は
「戦争とはむやみやたらに起こすべきものではない。」
一歩進めて
「平和が一番である。」
ということになるのではないかと思う。

ところが、孫子はロマンチスト的平和論者ではなく、リアリスト的平和論者だった。

多国間の平和は結局相手あっての事である。自国がどんなに戦争を回避したいと思っていても、他国が攻め寄せてきたら応戦する他はない。
ここにおいて初めてその後に様々に論じられる兵法のノウハウが必要になって来るのである。

故経之以五事、校之以計、而索其情。

故にこれを経(はか)るに五事をもってし、これを校(くら)ぶるに計をもってしてその情を索(もと)む。

そこで、戦争に対してどのように管理すれば良いのか、どのように治めればいいのか。それには5つの検討すべき事柄がある。この5つを自国と他国の間で比較し、その利害得失を検討することによってその実情を探るのである。

いざ、戦うとなればまずは彼我の国力、戦力、タイミング、地の利などどちらが有利か検討し、十分なシミュレーションを行わなければならない。
ここからは、「孫子は具体的な分析が大切ですよ」と説いている。今の時代においては(普遍的なものなので昔もそうだったかも知れないが)国家間同士の関係のみならず、人間同士の関係、企業間の関係などにも当てはまると思う。

そして次にあげられる5つの比較検討条件とは道・天・地・将・法であるが、これも孫子の定義する通りに考えるだけでなく、応用的に抽象化して個人は個人の、企業は企業の比較検討項目を当てはめれば、何事にも通用することが出来るのではないかと私は考える。

例えば個人における「道」とはその人のモチベーションや価値観・ポリシーなどが当てはまると思うし、企業における「道」とは企業理念や社風、社員の士気などが当てはまるだろう。

ここで少し脱線するが「道」とは一個の人間においても、企業においても、国家においても一番大切な事ではないかと思う。

「有道」の人「道理」をわきまえた人は無敵である。
私にとっては「お釈迦様・阿弥陀様の説かれた教え」が道理の根本になって来る。まあ、これは一例であって、クリスチャンならイエス・キリストの説く道理。ムスリムならクルアーンの説く道理。無宗教の人ならその人の経験・知識によって獲得された人生哲学が「道」のカテゴリに入るのではなかろうか。

そういう宗教観・人生観・倫理観などが深ければ深いほど人間というものは幸福・成功に近づくのではなかろうか。私も傍から見れば「人生の敗北者」にしか見えないと思うが、当の本人は割りと「許されて今を生きていることへの幸せ」を実感する日々である。だから幸福・成功などの価値判断は相対的なものであると言える。そうすると「少欲知足」を実践する人は道理をわきまえた人である。

本当に「足るを知る人」を利害損得で動かそうとしてもとても難しいだろう。ところが欲望の強い人になると利益や得に釣られて動かされやすくなってしまう。もちろん私も弱いが「お金になる」「儲かる」という言葉を聞くと心を動かされてしまう。

現代は「資本主義経済」ではなくて「資本主義社会」に完全になってしまった。経済活動だけでなく、すべての社会活動においても「お金がすべて」の世の中になってしまっている。このことは世界にとって、我が国にとって憂慮するべき事態であろう。「拝金主義」、「強欲であること」は人間の前提条件として完全に肯定されてしまっているように思える。

今の「若い世代は欲が少ない」らしいが、「お金」より「お金以外の享受する諸々の利益」に対して他の世代より率直であるだけのような気がする。結局今の若者も「利得」には弱いのではなかろうか。

また、ニュース・コマーシャルで「サステイナブルな社会の実現」
「多様性の尊重」、「ポリティカルコレクトネス」などが声高に叫ばれている。しかし現実の世界は良い方向に進んでいっているようには見えない。

私にはどうしても嘘くさく聞こえてしまうのだが、そういうものを声高に叫んでいる人たちの押しつけがましさに辟易するからなのかも知れない。
人類が長い歴史の中で育んできた知恵や良識などを真新しい価値観で破壊する。伝統文化の破壊者のようにも感じられるのである。

歴史を見ると新しい考え・価値観というものは出現しては流行し、ラディカル過ぎたり、独善的過ぎたり、通俗的過ぎたりするものは一過性のもので長く歴史に残らない。逆に道理にかない普遍的なものに根差した考え、価値観はどんなに古い時代のそれであっても過去から現在、現在から未来へと受け継がれていく。

うわべだけの、道理に根差していない、あさはかな「持続的な開発」「多様性の尊重」「政治的な正しさ」の他人を責め立てるような上から目線の運動では、返って大きな反動を招いてしまい、事態を前進させるどころか後退させてしまうのではないかと危惧している。

自分の事を棚に上げて書いているが、私も含めてどんな人も今よりずっと内省する必要があると思う。内省することにより自分自身への理解が深められ、自分自身への理解が深まれば、人間が良く変わり、人間が良く変われば、それこそ世の中がよく変わっていくのだと思う。

道理をわきまえるということは難しい事であるが、すべての人が道理をわきまえることで余計な争いも減り、ギスギスした世の中が少しは住みやすくなるのではなかろうか。

道理をわきまえるとは、では具体的にどういうことであろうか。
それを簡単に記せれば良いのだが、ここで論ずることは大変に難しい。
私は孔孟の教えや道教や仏教の教えにその具体例を見出すことにしている。

例えば、
己の欲せざるところは人に施すことなかれ
自分がしてもらいたくないない事は人にもしてはいけない。

過ちを改むるに憚ることなかれ
過ちをおかしたときにすぐに改めることをためらってはいけない

全てのものは移ろう。怠ることなく修行に励め。

好ましい言葉を語れ、好ましからぬ言葉を語るな
などは倫理道徳的に道理に叶う道の具体例を示してくれている。

私が思うに、道理を説いた言葉を本で読んだり、誰かから見聞きすることで人間は道理に叶う道を知り、実践を深めることが出来るのだろうと思う。

これは孫子の説く「道」とはかなり違うかもしれないが、個人レベルにおいては自己の修養が「百戦危うからず」の心を作るということであり、それこそが「道が有る人」ということになるのではないかと思う。

また、例えば私は統合失調症という心の病である。頑張りすぎてはいけない病気で無理をすると再発してしまう。適度に息を入れて走らなければならない。こういうことは私の「個性」の1つである。弱点とも言っていい「個性」かも知れない。このような自分自身の特質・個性を客観的に把握しておくことも必要だろう。そういったことも考慮して無理なく自己の鍛錬・修養に励むことが大切であると思う。

東洋の徳目には仁義礼智信や八正道などがあるが、人間はどうしても「利得」には弱い。様々な情欲も強い。孫子の兵法の極意はそういった人間心理に則り、他者の弱みにつけ込み、自分が戦い・交渉などの主導権を握ろうとするところにある。いわゆる「人に致して人に致されず」である。

であればこそ「飴にも鞭にも動じない」強い心を育むことが大切なのではないかと思っている。そして誠意と情熱をもって人に大利大欲につくことを説くのが一番であると私は思う。

長い目で見れば見るほど因果応報の理は確かなものとなってくる。
孫子の兵法は応用自在で短期的戦術戦略にもそのアイディアは活かせる。
だから、他人を出し抜こうとするときにも、はっきり言って有効である。
しかし小狡く立ち回って短期的な勝利を収めても、長期的には因果応報の理の中に収束してしまう。

古今東西多くの大悪党が因果応報の報いを受けて滅んできた。
本人がその人生の間に報いを受けることはなくても、来世で無限の報いを受けているかもしれないし、「親の因果が子に報い」という例もたくさんあるのである。

応用自在の孫子であるから、善用もできれば悪用もできる。
孫子の説く兵法論に具体的に入る前に一言それを断っておきたい。

さて、「道」の話の脱線を続けているが、今までは1個人の話をして来た。これが2人以上になると厄介になる。たちまち政治的な匂いのする話になって来ると。。。私は思う。

私には親しい友人と呼べる人は一人もいない。しかしそれだけ煩わしい存在がいなくて心がいつも平安である。恐らく誰か「友人のような人」が出来ただけで煩わしい付き合いが増えてやりたいことが半分くらいしか出来なくなるに違いない。

お釈迦様が、

自分より優れた友を必ず旅の道連れとせよ。
自分より劣った者を旅の道連れとしては行けない。
自分より優れた友がいない時は
むしろきっぱりと独りで行け。

とおっしゃっている。

何かの物事を成し遂げる時、劣った者を連れていくというのはその事の成否を左右する一大事であると思う。劣った者はそのパーティ全体を腐らせてしまう。混ぜるな危険である。

ここまで書いていきたが、では、お釈迦様の言う「劣った友」、「優れた友」とは具体的にどんな友であろうか。

それは、心根の優れた、智慧ある友か、心根の劣った、愚かな友であるかどちらであるかが大切なのである。
能力・年齢・技量の優劣ではない。

たとえ、年老いていて病に冒されていて看病が必要でもその人の心根が優れた、智慧のある友だったら物事を成し遂げるために私たちの力になってくれるだろう。彼はきっとこれまでの人生を立派に生きてきて多くの経験に基づくアドバイスをしてくれるに違いないからである。

たとえ、知識もなくて運動神経も悪くても心の清らかな少年はこの世の中の宝であると思う。その人は必ず自らの人生を誠実に歩み、自ら与えられた使命を全うし、周囲の人にも良い影響を与えてその一生を終える。

知識があり、スキルがあっても利己的で、利得に目ざとく、狡猾で、名誉と地位が大好きで・・・というような人間は友とするに値しない。
彼の周りには多くの人が群がるが、利得を求める人しか群がって来ない。
恐らく長い因果応報の理で見れば彼らは何事も成し遂げられないであろう。

無論、知識がありスキルがあり、心根の優れた賢者もたくさんいる。
そのような人は誠に逸材であって、一国の主、一企業の主たる人々は
三顧の礼でもって自らの陣営に加えるべきであろう。

しかしながら、この世界心根の優れた人々と出会うのはなかなか困難である。そういう人々に出会うには私自身心の修養に励み、人の心の真贋を見極めるようにならねばと思っているが、それにしても心根の優れた人がどこにいるのか見当もつかない状況である。

1人、2人の仲間なら心根の良しあしで付き合いを決めることも出来ようが、会社組織を経営するとなるとそんなことも言っていられない。

ドラッカーはマネジメントのなかで
「真摯さの欠如した者を組織に入れてはならない」
と何度も述べている。

真摯さは教育しようとしても授けることが出来ないものであるそうだ。
少人数の組織なら就職試験で「真摯さ」の有無を見抜くテストを行えば何とかなりそうだが、さらに大きな企業になると人材の管理が難しくなるのは想像に難くない。

ここからが孫子の真骨頂である。
勢に求めて人に求めず
という言葉が出て来る。

すなわち、人間一人一人ではなく、集団心理を活用することによって、物事の成就ために大きな効果を得ようとしたのである。
これは善用すれば人類社会をより良くすることも可能になるであろうが、
悪用すればその組織の破滅はおろか人類、地球が滅ぶことにもなりかねない。取り扱い注意な方法論である。

だから大原則は、
心根の優れた智慧ある友を求めて、きっぱりと独り歩む事が
何か物事を成し遂げるためには一番大事な事であろうと私は考える。





(以下続く 続きは明日以降加筆いたします。)

追記 孫武の説く「道」の定義はもっと具体的です。そして実際的なものであると思います。そこが問題点でもあり、孫子の実用的な点でもあると思います。



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