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胃と大腸は、摘出してしまっても死なないらしい。

土曜日。

狭すぎるワンルームに響き渡る、隣に住む外人の奇声で目を覚ます。

まだ完全に視界が戻らない中、スマホを探す。「モテそう」という理由だけで買った、使い道のない間接照明が手に当たって、床に落ちる。

若干の苛立ちを原動力に、重たい身体を起こす。床に転がる2Lのペットボトルを拾い上げ、いつ汲んだか分からない水を喉に流し込む。暖房のつけっぱなしで乾いた喉に水が流れるのを鮮明に感じる。

少し臭う口内を不快に思いながら、ベッドと壁の隙間に潜り込んでいたスマホを掘りおこして、時刻を確認する。12時56分。

二度寝をするにも、隣の外人の奇声が落ち着く様子をみせないので、諦めて布団から出る。最後に奇声を発したのはいつだったかなと思いつつ、引越しの際に段ボールに足の小指をぶつけた時だったなと思い出し、わりかし最近だったことに少しニヤける。

上京して2週間が経った。

大阪で居候をしていた時は、勝手に家に住みついてた身としてはいささか傲慢かと思うが、何かと苦痛がないわけじゃなかった。

生活リズムが合わないため、家主を起こさないようにビクビクしながら生活する日々。前置きもなしに突如として湧き起こる性欲を、自分のお好みのタイミングで処理できないもどかしさに悶える日々。

そんな毎日からの解放は、いうまでもなくこの上ない幸せではあったが、いざ現実となると少し寂しさも感じる。特段喋るわけでもなく、ただ同じ空間に共にしたあの環境に恋しさすらも感じる。

自分より先に目を覚ましていた息子が鬱陶しくて、Googleのプライベートモードでなんとなく動画を漁る。温泉モノが流れてきて、ふと気になって「混浴 関東」と調べる。意外にも、近くにあるもんだなと思いつつ、長野県にある混浴温泉はどうやら水着の着用が禁止らしいことを知ると、少しテンションが上がる。どうせ自分みたいな性欲に飢えた輩しかいないだろうと思いつつ、なんとなくその温泉のホームページのURLを、大学で仲が良かった奴らがいるグループラインに送る。「ここ行こうぜ」のメッセージまで送ってしまうと、これまでの自分の一連の行為にいたたまれなくなってスマホを投げる。

上京して2週間が経ったのだ。

東京(といっても住んでいるのは神奈川)での生活は、想像よりも地味で、想像よりも騒々しい。しょうもないオヤジギャグである。それもこれも全ては土曜の真っ昼間から奇声を発する外人のせいだ。

引き継ぎ期間というのもあって転職する前の会社のコミュニケーションツールがまだ息をしている。

仕事をしていた時にはあんなにも見るのが辛かった通知に、ひととおり目を通す。なぜ辞めた後も通知が来るのかは不思議ではあるが。

1日のうちの半分以上を費やして、命を捧げていた仕事の数々は、全て後任の先輩らが通常業務の片手間で、涼しい顔をしながらこなしている。自分がどうにかしなきゃと、悩みに悩んだチームは「そんなことありましたっけ」という顔をして、自分無しに平然と回っている。

そういえば。

胃と大腸は、摘出してしまっても人間は死なないらしい。

胃を摘出した場合、定期的にビタミンB12を摂取しなければやがて貧血になるらしいが、普段から貧血で頭痛を起こしてる身からすれば、そんなことはどうってことなさそうだ。

自分は前職にとって、胃や大腸のような存在だったのかもしれない。いや、そんなのもおこがましく、髪の毛の一本にすら及ばないのかもしれない。

前の会社にとっての自分は、髪の毛一本にも満たないのかもしれないが、間違いなく自分にとっては、前の会社が肺のような存在だったのだろうと思う。今ではそれがなくなって、転職先の仕事が胸のあたりの空洞を埋めている。

前の会社の当たり前と、今の会社の当たり前。人も環境も場所までも完全に違うから、何が良いとか、何が悪いとかではなく、その違いに違和感を感じることがある。

その度に、ふと「転職する」という選択が自分にとって正だったのか、誤だったのか不安になる。

正解も不正解もないこの世界で、頭では理解しつつも常に正しさという幻想を追い求めてしまうのは人間の弱さなのか。

まあでも。

どうせこの世界どころか、一つの小さな会社においても、髪の毛の一本にすらなれやしない人間が、あれこれ難しく考えても惨めなだけなように思える。

僕は、僕だけが決められる、僕の中の絶対的な正解を信じて、少しでも楽しく「今」に没頭したい。

土曜日という貴重な休日の夜を、こんなくだらない文章に費やすのは、果たして「少しでも楽しく」に該当するのかどうかはいささか疑問だが、幸せの絶頂を生きるカップルTikTokerが作った、特にオチのない猫ミームのショート動画を見て鼻で笑うよりかは、まあ充実した時間を過ごせただろう。






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