「図解でわかる〇〇」でわかったためしがない。
図解が苦手だ。
書くのがというより、見て、読み取るのが苦手だ。文章を読む数倍の時間がかかる。
図解のほうがわかりやすいというのの、意味がわからない。
特に矢印はわからない。あいつはだめだ。矢印だけはほんとにわからん。やめてほしい。古田尚行氏の『国語の授業の作り方—はじめての授業マニュアル』という(ばちばちにタイトルで大風呂敷広げている)本の板書案も、矢印の意味がわからなすぎてつらかった。
思うに、図解がわかるときというのは、すでに図解されている内容がわかっているのだ。つまり図解はわかっている内容の整理や確認として、使われるにすぎない。だからわかってない内容についていくら図解されても、わからない。矢印も意味不明だ。
(抽象的な)思考は文の形でしか理解できないのではないか。言語がなければ思考がないとは思わない。そういうナイーブな言語観、思考観は持ち合わせていない。ただ、一定程度抽象的なことを考えようとすると、言語がなければ考えられないし、伝えられない。また、文という単位でなければ、正確に厳密に考えられないし、伝えられない。(もちろん、なんでも文がいいと言いたいのではない。例えば道を教えるなら、言葉で説明するよりも簡易な地図を書いた方がわかりやすい。また、表やグラフも、文章では説明しにくいことを説明できるだろう。)
わかりやすい板書というのも、同じなのではないか。
雑誌や書籍に掲載されている板書例は、すごいなぁと思う。しかしあれを見てわかるのか。私には、板書を見ても内容はわからない。内容がわかっているから、板書がわかるのではないのか。
あるときから板書にこだわるのをやめた。そんなことより、生徒には自分の読みや考えを文として書かせたい。自分の理解したことを、文として書かせたい。
だから私の授業を受けている生徒のノートは、みんな違うことが書いてある。それでいい。自分の考えや、自分の読み取りのメモをする。私の説明や例示を自分なりに書き留める。必要に応じて、自分なりに図解する。
そのほうがいい。
教師の、教師による、教師のための板書(しかし多く生徒のための板書だと思われている)を単に写すよりも、圧倒的にわかるはずだ。
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