何かを批判的に読み、また批判するのは、おそらくお笑いを見て「何が面白いのかわからん」と言う人には無理なのだ。

小学生の頃から、いやもっと前から、落語や漫才が好きだ。

たしか小学校3年生のとき、もしもやりたい係があれば、クラスの係として新しく立ち上げ、それをやってもいいということになった。私は「落語研究係」なるものを立ち上げ、クラスの人たちを楽しませる係として活動することにした。

何度か昼休憩などに出し物として落語をやった。図書室にある落語のテキストを読み、簡単そうで、覚えられそうな演目をいくつかやった。

しかしまったくウケない。

ウケないので、仕方なく、内容ではなく、声色や変顔で笑かしにかかった。これは少しウケた。

そんな自分を恥じて、半年くらいで係は活動を終了した。要するに、何が面白いのかをみんなあんまり分からなかったのだと思った。もちろん私の技能の低さ、伝えられなさが原因だと思う。しかしもっと根本的なところで、なんというか、そもそも何を面白がればいいのかがみんなわかってないように感じたのである。

当然、笑いには好き嫌いがある。全員が全員、面白いと思うような笑いはたぶんない。私も、「面白くないなあ。」と思う芸人たちはたくさんいる。

しかし、私としては、「この人たちはここを面白がらせないのだな。」というのは理解しようとしているつもりだ。面白いかどうかは別として、「たぶんここを面白がるべきなのだな(私は面白くないけど)。」というのはわかるべきだと思うのだ。

ここ数年、批判される番組の企画や芸人のネタを見ていると、そもそも批判者たちは、けっきょく「何を面白がるべきなのか」がわかっていないのではないかと感じる。あるいは、「面白がるべき」ポイントがズレている気がする。

まあこれは印象である。

生徒に文章を読ませる。疑問やわからないことを書かせる。たいていは、筆者が何を伝えようとしているのか、どういうつもりで書こうとしているのかを丸っと無視した疑問や批判が出される。要するに、「何を面白がるべきなのか」がわかってないのと同じだ。

私もこのnoteに批判を書く。あえて批判だけ書くことも多い。しかし、ポイントは外さないようにしたいと思う。細かな部分を論うが、その細かな部分が筆者のやろうとしていることへの批判になるように気をつけているつもりだ。

批判的に読む、ということが言われるときに、よくセットで〈好意的に読む〉ことの重要性が語られる。これも、要するに「何を面白がるべきなのか」をおさえよ、という意味だと理解している。

ではどうするか。自分なりにいろいろ指導を試している。また書ければ書く。

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