「質問づくり」の良さはよくわかってないのだけど、〈疑問作文〉の良さは伝えていきたい。

『たった一つを変えるだけ』という本は、翻訳が出版されてすぐ読んだのだが、いまいちピンとこなかった。ずいぶん前のことなのであまり覚えていない。

もちろん、取り上げられている事例が社会(地歴・公民)や理科分野に偏っている(たしか)せいもある。

しかし、質問をたくさんつくり、質問を検討するという活動にどれほど意味があるのかよくわからなかった。

ちなみに、「質問づくり」については、次の動画がわかりやすい。

これらの動画で説明されていることで、私が理解できないことはいくつかあるのだが、本題から逸れるのでおいておく。

さて、『たった一つを変えるだけ』を読んだ当時、私はとりあえずやってみようと思った。で、やってみた。数回やったのだが、うまくいった気がしない。手応えがなくて困った。

まあこういう学習活動は、継続してやることに意味があるのだと思っている。1回や2回、思いつきのように差し込んでも、意味はないとわかっている。

でもなんか、こう、あんまりうまくいっている気がしなかったのである。だから諦めてしまった。

いろいろ原因を考えた。私なりには次の2点が気になったのだと思う。

  1. ブレスト的に質問を出すのがうまくいってない。

  2. 質問の検討の基準がよくわからないからうまく検討できてない。

「1.」について書く。
気軽にたくさん質問を出す。量に質を担保させる。これは理屈としてはわかる。すでに書いたように、書くのに慣れるためには、よい文章を書こうと意気込みちびちびしか書かないよりも、質はそこまで気にせずたくさん書きまくったほうがいいだろう。

しかし質問はそういうものなのだろうか。よくわからん。ほとんど答える意味があるのかわからないような問いや、調べたらすぐにわかるような問い、何を答えればいいのか判然としない問いを、たくさん挙げて意味があるのかよくわからない。それで質問が上手くなるのか、問いを立てるのがうまくなるのか、よくわからないのである。

少なくとも、3つか4つの教材で継続的に質問づくりをしたが、問いづくりが上手になっているようには思えなかった。

「2.」について。閉じた問いと開いた問いの分類も、問いの変換も、なんかピンとこない。いろんな問いのバリエーションが作れるのはわかる。ただ、問いがどんな問いであるべきかは〈目的〉や〈文脈〉による。〈文脈〉を離れて価値のある問いを決めるのはよくわからん。

そんなわけで、質問づくりよくわからん、となった。

ところで最近は授業で〈疑問作文〉をさせる。文章を読んで、疑問を作らせる。疑問についての作文をさせる。

これがいい。具体的にどうするかは明日書く。

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