「対策プリント」なるものがあるらしいが作ったことがない。

定期テストの対策プリントなるものがあるらしい。どんなものなのかは知らない。テストに出る問題が一部まとめられているのだろうか。よくわからない。

「どこから勉強していいかわからない」というのは、範囲のことなのか。それとも何から手をつけていいかわからないというような意味なのか。よくわからん。

なんにせよ、「対策プリント」があるとそれがどう変わるのか。ただの対症療法ではないのか。

範囲などというものがテストにあるのかもわからない。いわゆる「テスト範囲」とは、主として、どのような内容を出題するつもりなのかということでしかない。ほんらい、範囲はこれまで学習したすべての内容であるはずだからだ。ある範囲だけを出題するとかできるのだろうか。わからん。

「必須」らしい。しかし、なぜ「対策プリント」なるものが、「勉強の仕方が分からない子や、その教科が苦手な子にとっては大切」なのか。

まず、「勉強の仕方が分からない子」と「その教科が苦手な子」は並列していいのか。それぞれに対応するような「対策プリント」なんてできるのだろうか。

また、「勉強の仕方が分からない子」が「対策プリント」をすると、「勉強の仕方」がわかるようになるのだろうか。単に、「これさえやればいいのだな」と誤学習しないか。「勉強の仕方」とは、その指示する範囲はかなり広いはずだ。人生を通じて使うことになるだろう。誰かに勉強のためのツールが勝手に与えてもらえ、それさえやればよいのだと考えるようになってはいけないのではないか。私はダメだと思う。

「必須」らしい。もういい加減書くのは嫌になるが、私の所属校は「ある程度より下の学力層の高校」だ。しかし私は(そして私の周囲の同僚たちも)「対策プリント」なるものを配付していない。

なぜ「道しるべ」になるのか。どう「道しるべ」になるのか。「対策プリント」をやると、「勉強の仕方」なるものがわかるようになるのだろうか。そんな「対策プリント」ならぜひ見たい。参考にしたい。自学できるようになる教材である。私はそんな教材を作りたいと思う。しかしかなり難しい。少なくとも、自分の教材で「勉強の仕方」をわからせたという実感はない。

「質問もうまくまとまらない。」とはどういう状態か。他になにが「うまくまとまらない」のだろう。「質問も」ということは他にもなにかまとまらないのだろうか。あるいは〈質問さえも〉という意味か。「質問」というのはそんなに簡単なものなのか。自分のわからなさを自覚して、自分のわからなさを、自分がわかっていることとの関係で言語化できるというのは、そうとうレベルが高い。それができればそもそも「対策プリント」は邪魔だ。自分のわからないところだけを集中して勉強したいだろう。

「対策プリント」なるものを作る人は、自分の授業をどう考えているのか。あるいは、自分の授業の予復習をどのようにすべきだと考えるのか。「対策プリント」をやればテストで点が取れるなら、授業は不要ではないか。

私は、これもすでに何度か書いているように、授業の内容をすべて文章にして配付してきた。復習はその文章を熟読すればいい。授業中はその文章にメモを書き足したり、自分がだいじだと思うところに線を引かせたりする。復習は、それを見直すように指示する。勉強するというのは、基本的には文字を読んで書いてある内容を理解することだと教える。また、どんなふうに(どんなことを考えて)読めばいいかは教材自体にあらわに書いている。つまり、授業とその教材で、あえて言えば「勉強の仕方」を教えていることになる。

やはりなぜ「対策プリント」が「必須」なのかわからない。不思議だ。「対策プリント」はけっきょくのところ、いったい誰のためにあるのだろう。生徒のためではなさそうである。

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