長崎街道5 田代宿→佐賀宿
2023年9月、西国街道を歩き終えた夜の下関で関門海峡を眺めていると、長崎街道の起点 門司の灯りが間近に見えます。なんだ、近いじゃないか長崎街道!
憧れの長崎街道、鎖国の頃に異国文化を運び、シュガーロードもと呼ばれた、文化交易の大動脈。北九州から長崎を目指します。
2023.12.27
1.田代宿
鳥栖市の道標の色は水色です。
長崎街道と豊後や薩摩に抜ける道への分岐点、鳥栖は現代では高速道路や鉄道の要衝ですが、往時もそうだったのですね。
追分石の標柱に箱が添えてあり、地図が入ってました。これは本当に助かります。
鳥栖市内には、田代宿と轟宿が隣り合わせで隣接しています。
現在の鳥栖市周辺は唐津藩の領地でしたが、その中に対馬藩の飛地があり田代宿が置かれたため、一里もない距離に宿場が二つあります。
田代宿に入った近くに、Hisamitsuの妙に立派な工場がありました。
何となく気になり撮影しておいたら、やはりここは久光の企業城下町っぽく、広々とした工場とミュージアムまであります。
創業の地なのかと思い調べると、やはりそうでした。1847年鳥栖にて創業、有名なサロンパスは1934年(昭和9年)に発売されてます。
ちょうど出勤時間帯で、多くの社員とすれ違いました。
右さか 左くるめ、と記されてます。
久留米の町も訪れてみたいですね。
寒い日の朝、飲食店などの仕込の湯気が舞い上がる風景を見ると、生きる営みの活気を感じます。
夏も同じ仕込みをしているのですが、目には入ってこない光景。寒い日の特権ですね。
サガン鳥栖のホームスタジアム、駅前不動産スタジアムという名前は聞いてましたが、本当に駅前に不動産屋さんがあり、しかも線路を挟んで目の前がスタジアム。とてもわかりやすいネーミングライツの相関図。
ちなみに駅前不動産は、お隣久留米市の事業者です。
ふく手羽。
福を呼ぶ手羽先の略で、お店の名前でした。食べてみたくなる名前ですね。
2.轟木宿
長崎本線と交差しました。
これから終点までお供する路線、宜しくお願いします。
轟木宿に入りました。
上の画像の付近が中心地になりますが、道路が拡張され、それらしい雰囲気があまり感じられません。
轟宿。
あっという間に終わってしまいました。
福岡県はうどん文化が盛んで、今回の旅では毎朝うどんを食べてます。
"ウエスト" "牧のうどん" "資(すけ)さんうどん"が三大チェーン店とも呼ばれております。
"資さんうどん"は二日めの朝に食べましたので、残るは2チェーン店です。
間違えてしまう人が多いのでしょう、鳥栖市教育委員会が看板を出しています。
九州新幹線の高架線が、物凄く高いです。街道を歩いて来て見た新幹線の高架線で、一番高く感じました。
参考までに高いと感じた新幹線の高架線3つを紹介します↓
3.安良集落
安良地区の集会場。
普通ならば神社があるのですが、見当たらず。その広場の真ん中に、見事な夫婦大樹が聳え立っています。
大樹の根本に座り小休止、樹木の力をたっぷりと頂きました。
ゴルフ場の真ん中を通り抜けます。
ゴルフ場は日本の総面積の0.7%を占めると言われてます。
街道歩きで一度だけゴルフ場の真ん中を通り抜けた事があります。そのゴルフ場名は"中仙道ゴルフ倶楽部"、岐阜県瑞浪市の山間部にあり、そのまんまの名前、素晴らしいですね。
カートが横切ったり、ロストボールが道標や祠に並べてあったり、不思議な光景でした↓
4.村田
佐賀県に入り麦畑が増えて来ました。
米と二毛作をしている様です。
はじめて長崎までの距離表示を目にしました。これで半分くらいは歩いた事になります。
上の画像の奥に見える大きな壺。
長崎街道を歩き飯塚宿の手前あたりから、時々目にする様になって来ました。
水瓶でしょうか、佐賀県は窯元が多い地域だからかもしれません。
5.中原宿
中原と書いて、"なかばる"と読みます。原を"ばる"と読む、沖縄の地名と似てますね。
長崎街道を歩いて感じた事は、地名の読み方が、半分くらいは当たらない事です。
宿場町の名前で言うと、例えば"木屋瀬"宿は、"こやのせ"でした。
鈴緒。
神社に参拝するときに、鈴を鳴らす綱の名前を鈴緒と呼びます。良い響きですね。
何故鈴を鳴らすのか。
神様はいつも寝ているので、鈴を鳴らして呼び覚ます為で、その他の起こす方法として、参拝時の拍手や、神輿を担ぐときに揉んだり(揺らしたり)します。
晩白柚(ばんぺいゆ)。
ギネスにも認定された世界一の重量級の柑橘類、お隣の熊本県が全国生産の9割を占めています。
寒水がらがら。
近くを流れる寒水川付近の発掘調査をしたところ、福岡・大分県境の霊山・英彦山(ひこさん)の参拝土産として広まった、"英彦山がらがら"が発掘されました。
''英彦山がらがら"は日本最古の土鈴と言われ、その歴史は奈良時代まで遡ります。
寒水祇園神社の鈴緒は、先程の中原祇園社の鈴緒と違って、ねじられています。
菜の花が咲いてました。
まだ早いと思いますが、暖冬の影響かもしれません。
桜前線はどうなることやら。
6.吉野ヶ里
昼食会場の佐賀軒。
長崎ちゃんぽんとステーキが売りの不思議な組み合わせの店。
他のお客さんがステーキを食べてて、とても美味しそうでしたので、次回は食べてみたいです。
そういえば、中原宿を出てから、坂道がほとんど無くなり、穏やかな流れの川を頻繁に渡る様になってきました。
気がつくと佐賀平野に入っていたのですね。
うっかり川を先に渡ってしまい道を間違えてしまいました。
川の向こうに見えた田手神社、拝殿と本殿が同じ大きさです。今度来る時絶対参拝しないと。
7.神崎宿
ひのはしら一里塚。
こんなに立派な石垣で造られた一里塚は記憶にありません。
長崎街道では殆ど一里塚らしい遺構が残っていなかったので、今までの物足りなさを、一掃する位のインパクトでした。
数多くの立派な一里塚を観てきましたが、一番印象的だったのが、甲州道中の長野県富士見町にある、神戸の一里塚。
両塚残っているだけでも素晴らしいのですが、西塚のケヤキは江戸時代初期の頃に植えられたと言われており、幹の太さ6.9m樹高は約25mもあります↓
甲州道中神戸の一里塚前後、標高1,000弱の高原地帯の街道歩きは、雨でしたが気持ち良かったです。詳しいレポートはこちら、↓
肥前鳥居。
上の画像の鳥居、独特な形をしていますが、肥前鳥居と呼ばれています。
一度目にしたら忘れられなくなる愛くるしい形、佐賀県と隣接する福岡・長崎県に分布、通常の鳥居と何が違うか、2枚の画像で比較して説明します。
この先も肥前鳥居が楽しみです。
琴の楠。
心の正常な人が、呼吸を止めて楠の周りを七回半廻れば、琴の音色が聞こえ願いが叶う、と伝えられています。
頑張ってチャレンジしているご婦人がいました。
櫛田宮には、撮影し忘れましたが立派な池があったり、見どころ満載でした。
神崎宿。
商店や街並みの調和が取れていて、また来たくなる味わい深い宿場町でした。
8.二十歳の街道冒険家
神崎宿に入る手前で、前方に大きなザックを背負い、スティックをつきながら、痛そうな足を我慢して歩いている人がいます。
どうみても野宿しながら長崎街道を歩いている風体、街道冒険家と呼ばせて頂きます。追い越しながら挨拶すると、人懐っこそうな青年でした。
聞くと想像通り、野宿で長崎街道を歩いている途中、毎日40km近く歩いており、極寒の中の公園などでの熟睡出来ない野宿と10kgのザックでの歩行を考えると、相当の疲労だと思われます。
私は普段、大学で観光学を二十歳前後の子どもたちに教えているのでわかるのですが、知らないおじさんが話しかけると、面倒くさがる筈なのに、むしろ話をしながら歩きたい様子。
話をしていると、街道歩きについて”まともに話せる相手”に初めて遭遇したらしく、言葉の通じない星にいて、初めて言葉が通じる生き物に会った時の様な感覚だったそうです。
話していて驚いたのは、二十歳で観光学を学んでいるとの事!
私が職業を明かすと驚いてました。
こんな偶然ってあるのですね。
ちょうど城原川の堤防の上を30分くらい歩いていたので、街道冒険家とゆっくり話ができました。
私も街道歩きを二十歳の若者と語ったのは初めてで、話をしているうちに、私自身の卒業旅行が東海道歩きであった事を想い出しました。
その間進行方向右側には、どこまでも広がっている佐賀平野の美しい麦畑と、彼方に佐賀の街並みが望めます。
この麦畑は二毛作。
街道を歩いていると、ゴールデンウィーク前後が田植えのピークで、長閑な風景に心癒されます。
ここ佐賀平野では、一般的な田植えの時期より約1か月遅い、6月に田植えををする事で二毛作が実現しています。春の”田植えと麦の収穫期”・秋の”稲狩りと麦の種蒔期”が重ならない様にするために、佐賀県の農業関係者の並々ならぬ努力と工夫がありました。
一例として、稲を作る水田から麦を作る畑に変わる際、水を早く抜くための排水パイプが地中に埋められている事など、目に見えないところに想像を超える努力が隠れていました。
街道冒険家は、赤いザック・赤いジャンパ・赤い靴、本人曰く情熱の赤でコーディネート。
そして両手には、疲れても歩みを止めさせないための、自信を追い込むためのスティック、Mですね。
この付近は水路が道路と同じくらい張り巡らされています。
地図で佐賀県神埼市で検索してみると、その凄さがよくわかります。
9.境原宿
街道冒険家と一緒にいると、犬に吠えられます。家の庭・家の中・車の中、とにかく吠えられます。
街道冒険家と一緒にいると、いろんな人に話しかけられます。私一人だと誰も寄ってきませんが、彼はそういう天性のキャラクターの持主なのでしょう。
ご近所の方が、大名行列のお殿様が立ち寄った神社が、この先右に曲がると”すぐのところ”にあると、小学校の頃学んだと教えてくださり、折角なので寄って行ってとお勧めされます。
地元の人が言う、"すぐのところ"がすぐではない事が多々あるのですが、疲れている・時間が無いなど言える雰囲気では無くなり、四の五の言わず向かう事に。
若宮神社。
街道を曲がってからすぐの距離で一安心。
神社はなかなかの風格、往時の殿様も肥前鳥居をくぐり、石橋を渡って参拝していたと思うと、グッときました。
街道冒険家と食事をして、ここでお別れ。彼は久々に屋根のあるネットカフェに泊まれると嬉しそうです。
再会を誓って別れを告げました。
街道冒険家は別れた3日後の12/30に、雨の中無事長崎に到着しました。
年明けには、私の街道仲間との新年会にゲスト参加します。
10.佐賀宿
佐賀城下に入っても水路が張り巡らされています。
画像ですと暗くてわかりづらいですが、水面にぼんやりと映る街の灯りなど、立ち止まった眺めたくなる様な風情があちこちにあります。
アーチ看板があるだけでもテンションが上がるのですが、そこに長崎街道と記されています、もうたまりません!
佐賀城下に入ると、恵比寿様が至る所に鎮座しており、その数は佐賀市内だけで830体以上、恵比寿様の数日本一を誇ります。
恵比寿様の横の説明文章が秀逸で、ひとつひとつ異なる文章で、最後にその恵比寿様と市民のエピソードなどが、上手に記されてます。
何故恵比寿様がたくさん祀られているのか、それはご当地鍋島藩初代藩主の鍋島勝茂公が、恵比寿様の総本社・兵庫県西宮市の西宮神社に崇敬が深かったからといわれています。
西宮神社といえば、目の前を西国街道が通っており、今年の夏の早朝4:44分偶然通った瞬間に開門しましたので、その時の様子を紹介します↓
上の画像正面が西宮神社、門が閉まっていたので残念と思い、通り過ぎようとしたら、ゴトゴト音がします。
通りがかった瞬間にギギィ〜っと、運良く開門、中に入ります。
途中ふり返ると、この風景どこかで見た気がする。
あぁ~、これです、パネルが境内に貼ってあります。新年恒例、福男選びの神事、ニュースでよく見る景色。
今私自身が開門と同時に境内に入った事を想い出し、急いで走って一番に参拝、見事に本日の福男になれました。
この日は真夏日、西宮〜神戸〜明石まで西国街道を歩いた記録にご興味がある方は↓
本日はここまで。
佐賀駅前の宿泊施設まで、美しいイルミネーションの中を進みます。
今夜は途中で夕飯を食べたので、夜のパトロールは中止、早く寝ます。