街道歩き温故知新2 中山道 寝覚の床
街道歩きは前に進む事で精一杯。寄り道できず、又来ようと心に誓った場所は数知れず。そんな場所を訪れるシリーズ、街道歩き温故知新。
今回は、2021年6月に中山道を歩いた際に、素通りしてしまった寝覚の床。中央西線からよく見えるので、ずっと気になっていた場所です。
2024.07.22
1.スタート地点まで
本日午前中は善光寺西参道の松本宿→洗馬追分を歩いてました。
昼過ぎに歩き終えたので、このまま帰るのは勿体無いので、中山道でやり残した事をやってみるかと、前回立ち寄るのを忘れていた、寝覚の床に行くことに。
洗馬駅からの電車が満席のため、一番前のお立ち台から車窓を楽しみます。
寝覚めの床の最寄駅は上松駅。
まずはお腹が空いたので、馬(タクシー)を呼んで蕎麦屋まで連れて行ってもらいます。
街道歩き以外は、乗り物をフル活用して贅沢をします。
2.木曽節
お酒は木曽福島の銘酒、中乗さん。
中乗りさんの由来を、店のご主人に教えてもらいました。
中乗りさんとは、切り倒した木材を筏にして、三艘つないで川を下る船頭の仕事。
三艘の船にはそれぞれ船頭が乗り、高い技術が求められる真ん中の船の船頭を、中乗りさんと呼んでいました。
特急しなの号が来る前にご主人が、そろそろ来るよと、教えてくれます。
食べ終わった頃に、ご主人が再び登場。「木曽節を聴きたいか?」
と嬉しそう聴いてきて、もう準備して立ってます。
お隣に茨城県から来ていたお嬢さんと一緒に手拍子して、木曽の谷に響き渡る美声の唄を満喫しました。
木曽節の歌詞に出てくる歌の主役は、中乗りさんです。
3.寝覚の床
寝覚の床とは、、木曾川の激流により浸食してでき上がった奇勝。
その岩の上で浦島太郎が夢から覚めた事から、寝覚め床と呼ばれています。
臨川寺の山門で拝観料を払い、その敷地を通過して、寝覚め床に向かいます。
先程、そばを食べながら見下ろしていた中央西線の線路の下をくぐり、帰り途を考えると気が遠くなる様な坂道を、どんどん下に降って行きます。
寝覚の床の素晴らしいところは、ロープも看板も何もないところ。
己の命は己で守れ、と無言で教えてくれます。
来てよかったです。
浦島太郎がここで目が覚めたときは、どんな気持ちだったのでしょう。
上の画像、彼方に見えるのが先ほど、蕎麦をつまみに、銘酒中乗りさんを飲みながら、木曽節を聴いていた店。
あの付近まで戻ります。
4.現代の茶屋 コンビニエンスストア
昇り切ってセブンイレブンの前で一息付いていたら、突然竜巻でも起きるのかと思うくらいの、暴風雨が吹き荒れます。
呆然としていたら店員さんが、中で休んでください、と呼びに来てくださりました。
コンビニエンスストアは、人の温かみを感じる事が出来る、現代版の茶屋ですね。
雨のコンビニエンスストアといえば、土砂降りの東海道の小田原市内、使い古した雨具が機能しなくなり、立ち寄ったセブンイレブンを思い出しました。
ずぶ濡れで水がしたたる状態で雨具を買いにレジに向かうと、嫌な顔ひとつせず「雨の中大変ですね」の一声。
物凄く大きな力をいただいた記憶が残ってます。
土砂降りの東海道を歩いた時の記録はこちら↓
5.中山道
ここからは、中山道を歩いて上松駅まで戻ります。
ここからはお楽しみの中山道を歩きます。
前回歩いたのが三年前、記憶が鮮明に残っており、今まで街道を歩いた中で一番記憶に残る区間です。
その時の記録はこちら↓
数年以内には、中山道を京から歩きたいです。
右側奥が、大相撲御嶽海関の母校、上松小学校です。
尾張藩直轄で、周囲を高土手などで囲い大砲まで備えていたそうです。
伊勢神宮式年遷宮で使われる材木も、木曽の山から運ばれています。
駅前に番付表が貼られています。
赤い印が御嶽海関。
6.帰路
御嶽山立入規制情報。
こちらは御嶽海ではなく御嶽山の情報。2014年、戦後最悪の火山災害から10年が経つ今も規制が続いてます。
私は1990年に学生時代に登りましたが、案外とあっさり昇れる山で、噴火するとは思ってもいませんでした。
電車の中は祭りに向かう若者で大賑わい。木曽福島駅で全員が楽しそうに降りて行きました。
いいですね〜夏祭りのドキドキする様な雰囲気。
塩尻駅の立ち食いそば。
前回歩いた時に、あまりの狭さに感動して、本日も楽しみにしてきましたが時間が遅く閉店してました。
前回歩いた時の画像がありますので、ご覧ください。
いい店でもっと飲みたかったのですが、最終のあずさで帰ります。
この日は東海道新幹線が停まっており、なんと塩尻経由で帰る人々でごった返してました。
締めは中乗りさん。
いい時間でした。
早く中山道を歩きたいです。
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