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Twitter大国ニッポンの命運は

タイトルは大袈裟ですけど、たいした内容じゃありませんので悪しからず。

タイムラインは阿鼻叫喚

イーロン・マスク氏は7月2日2時(日本時間)、Twitterの利用を一時的に制限すると発表しました。

API制限により未認証ユーザー、つまり無課金ユーザーは1日あたり600〜1000ツイートしか見られなくなりました。

あまりに唐突な措置に加え、煽るかのようにマスク氏が無邪気に放ったツイートが追い打ちをかけ、タイムラインは阿鼻叫喚と化しています。

特に日本では2日午後のトレンドが、ほぼこのAPI制限絡みとなりました。
マスク氏の一連のツイートは、意訳や誤訳を含めて拡散され、ビンラディン以来の国際的ヒール爆誕となりました。

日本人のTwitter贔屓

僕自身、公私に渡り15年近く主力兵器としていたのでこの措置には驚いてしまったクチですが、制限の軽い業務用アカから観測すると、おそらく、ここまで反響の高い国は日本くらいじゃないかと思った次第です。

それで調べてみたら、やっぱり日本人のTwitter好きは異質でした。

ほとんどの国でfacebookがダントツのユーザー数を誇る中、日本ではLINE(9,500万)に次いで、Twitterが4,500万で2位となっています。

Twitterの総ユーザー数は3億3千万なので、日本のユーザーは世界の13パーセント以上を占めるわけです。

30億ユーザーを誇る世界最大のSNS・facebookですら、日本では世界の100分の1を下回る2,600万ユーザーに過ぎません。

どうして日本ではこれだけTwitterの利用が際立つでしょう?
インターネット老人会のひとりとして接した事柄から振り返ってみます。

匿名を巡る攻防

思えば、日本におけるネットコミュニケーションはパソコン通信から始まり、コミュニケーションは、主に「ハンドルネーム」で行われました。

このハンドルネーム、意外にも和製英語だそうで、日本のネット黎明期ではまさに「ネチケット」なる古式ゆかしい御作法となりました。

そもそもユーザー個々が機械的に発番されたIDを、親しみやすくするために日本語に置き換える必要があったのでしょう。
この辺り、半角英数字に馴染みのない国ゆえの文化だと考えられます。

Windows98のヒットによりネットコミュニケーションがキャズム化する中で台頭したのが、2ちゃんねるなどの匿名掲示板。

ここでは、名無しでの投稿が主流となりました。
ハンドルを付けて発言することもできるのですが、そういう人はなんとなく面倒臭い人扱いされていました。

そもそも日本人は、ハンドルであれなんであれ、特定される形で言いたいことを放流するのが苦手なのかもしれません。
なんかあるとすぐに「責任」言うでしょお前ら。

2ちゃんねるでは、いまだに真偽不明の『電車男』や、誰もがコピペ改変できるアスキーアートなど、名無しならではの文化が生まれた一方、罵倒による名誉毀損、脅迫や犯行予告など一部ユーザーの悪行がマスコミに取り上げられるようになります。

僕の職場界隈でも出演者への暴言めいた批判などから「あそこにはアレな人しかいません」「面倒なので近づいちゃいけません」という自主規制も働くようになりました。

こうしたスタンスはおそらく、全国の既存メディアどこも一緒だったはずです。
そのため、お茶の間の非ネット層を中心に「名無しは悪」という概念を植え付けてしまったのと同時に、後に既存メディアのネット活用が遅くなる背景となりました。

「足あと」さえなければ

2000年代前半に入るとブログブームが起こり、さまざまなプロバイダがサービスを開始します。

その中でも検索サービスで創業した「はてな」では、名無しとハンドル再興のミッシングリンクのような佇まいを今も残しています。

やがて生まれたmixiは、ブログや掲示板を運営しながらコミュニティを作ることができ、日本で初めて成功したSNSとも言えます。

当初義務化されていた実名制(のち撤廃)、既存ユーザーからの招待のみという加入方法は、運営による名無しへのアンチ宣言であり、やがてハンドルOKとなるや、日本人のソウルを満たす「ハンドル万歳」の血を再び沸騰させることになります。

ただし、運営サイドによほど強い名無しへの嫌悪感があったのでしょうか、mixiには「足あと」なる悪しき機能がありました。

自分のビキニ写真をアップしたユーザーには、「どこの助平がいつ覗きに来たか」がバレてしまうので、助平会員としては、なかなかになかなかな使いづらさを覚えたものです。

日本人にマッチしたTwitter

便利だけどフットワークが重くなる環境を打破したのは、2006年に誕生したTwitterでした。

たった140文字のテキストメディアでありながら、自由にユーザー名を決められ、些細な内容を書き込めるライフログの一面など、日本でブレイクする要素は最初からありました。

2008年に日本語版がリリースされると、簡便な検索機能を使ってクラスタを一網打尽できるようになり、著名人や顔を知らない者同士の憩いの場として人気が加速していきました。

やがてハッシュタグの日本語化、画像の直接貼り付け、引用リツイートなどの機能が追加されていき、「拡散」という現象を生み出して欠かせないインフラとなっていきました。

東日本大震災などで見られたデマの拡散は、発信者が名無しではないこと、つまりは性善説が却って災いした事案として記憶すべきでしょう。

雨後の筍

この2000年代終盤には「Web2.0」とかいう知識人やアーリーユーザ層のお題目が珍重されました。
よく覚えてませんが、SNSの双方向性によって、趣味や思考、政治理念などが可視化され、集合知となるという、なんかそんな雑な未来観でした。

実際SNSパワーによってトランプさんやガーシー容疑者が当選してしまったのですから、「集合知って素晴らしい」というアイロニーになりましたけども。

Twitterの普及から間もない2009年末にはUSTREAM、2010年のお正月にはfacebookが新たなメディアとして持て囃されました。

USTはともかく、fbでの「実名&顔画像アイコン必須」というルールに、アニメアイコンの皆さんの多くが「えぇぇ」と後退りしました。

そんなfbでも、2010年代中盤には実名ゆえの安心感から、学生たちに就活の必須ツール扱いされたものです。

しかし取引先や上司から昼喰ったグルメ画像に「いいね!」を強要されてる気がする、というイヤゲー感から、入社後には幽霊部員化も進んだようです。

今やおじさんおばさんのハッテン場の感もあるfbですが、前述のように30億ものアカウントが存在する、キング・オブ・SNSです。

なのに、日本の文化は実名主義とはなかなかマッチせず、アドバンテージを下げてしまったわけですね。

Twitter難民の行く末

さて、Twitterの窮乏ぶりとマスク氏の無茶ぶりが露呈した今回のAPI規制。
日本では先行きの不安に「さようなら」と物騒なツイートを放つ人々も多数いましたが、もうちょっとお前ら落ち着けよ。

Twitterの惨状を予測していたのか、かのfbの生みの親でメタバース界のドン・キホーテことマーク・ザッカーバーグ氏は6月下旬にこんなことをリリースしていました。

ここで気になるのは、新サービスが実名主義か否か。
日本でTwitterの客を奪うなら「ハンドル上等」の心意気をザッカーバーグが見せるしかありません。

頑張れマーク、決めろよザッカー、実名やめろよバーグとエールを送ります。

上記記事では同じメタ社が提供するインスタグラムをベースにするそうなので、実名登録は不要となりそうな予感ですが、どうなりますかね。

つか、ローンチまでTwitterがもてば、まだまだ混迷は続きそうです。

ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。