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短編小説 擬音の疑問

「最近、日本語の乱れが気になるようになってさ。」
置かれたばかりのコーヒーを勢い良くすすりながら、長谷川はつぶやく。
田畑はそれを見ながらコーヒーに息を吹きかけていたが、長谷川の一言を聞いてそれをやめた。
それは別に長谷川の一言に息を呑むような驚きを覚えたわけではなく、
そうしないと返事ができないからに過ぎなかった。
「なんだよ、お前もおっさんの仲間入りか?」
長谷川は笑う。
「いや、別にあいつらみたいに他人に注意しようとは思わないよ。俺も結構あやふやな使い方してる言葉あるしな。」

長谷川は喉仏を田畑に見せつけながら、カップをぐっと傾けた。
上を向いた顎を下ろす勢いで立ちあがり、そのまま出ていきそうだった。
この喫茶店に来てからまだ10分ほどしか経っていない。
田畑は一瞬、猫舌の自分も急いで飲まなければいけないという焦りに駆られた。
だが心配には及ばなかった。長谷川のコーヒーは飲み方に比してほとんど減っていなかった。
「だけど、自分が間違って使ったことのある言葉ほど、他人の間違いが気になるんだよ。」
田畑の頭の中は
「紛らわしい飲み方するな、こいつ。」
という思いで満たされていたが、わずかに残った頭の空白を使って、長谷川と会話を続けた。
「でも普通に生活していて、そんなに気になることあるか?」

「それが結構あるんだよ。さっきの店員の女の子だってさ、『こちら、ブレンドコーヒーになります』って言ってたろ?
 でも本当は『ブレンドコーヒーでございます』って言うのが正しいらしいんだよ。」
「細かいこと言うなよ。言葉ってのは変化していくものだろ?」
田畑はコーヒーを少しだけ啜り、すぼめた口を反射的に横に広げて見せると、液面に向かって何度か細かく息を吹きかけた。
「もちろんそれは分かってるよ。だけど間違いなものは間違いなんだよ。
 誤用が広がって定着するのは構わないけど、定着するまでの間は、俺みたいな人間はずっと違和感に耐えないといけないんだ。」
「そんなに気になるんなら、一人一人注意して回ってやりなよ。」
「いや、俺はおっさんになりたくないから、心の中で嘆いているんだ。」
「そう思ってる時点で十分おっさんだよ。その思想を捨てないってことは、
 お前はおっさんになっても構わないと思っている。いわゆる消極的おっさんってやつだ。」

「消極的おっさんって言うと、ただの引っ込み思案な五十代みたいじゃないか。」
それを聞いた田畑の頭は、今度はモジモジしている管理職風の男でいっぱいになった。
会話はそこで途切れ、無言で長谷川がコーヒーを啜る時間が続いた。

深呼吸のついでにたっぷりと空気をコーヒーに送りこんで、田畑が呟いた。
「俺もお前の言っていること、なんとなく分かるかも知れないな。」
「そうだろう、俺らくらいの歳でも、一個や二個は気になる言葉が出てくるもんだ。」
「この前、会社でうす焼せんべいを食べてたんだよ。そしたら部長がさ、
 『あんまり仕事中にボリボリ音を立てない方がいいよ』って言っててさ。」
「……どこにも違和感ないけど。強いて言うなら仕事中にうす焼きせんべいを貪り食うお前くらいだよ。」
「いやいや、うす焼きせんべいはパリパリ食べるもんだろ。」
田畑が失笑して答える。失笑の吐息もコーヒーの液面に向けて放つことを忘れてはいない。
「いや、どっちだって同じだろう。」
「何言ってんだよ。ボリボリだとうす焼きせんべいのあの軽やかな歯触りと程よい塩気が伝わらないだろ!」
田畑は思わず机を叩いた。二人のコーヒーが揺れ、カップから溢れそうになる。
「……塩気はパリパリでも伝わらないだろ。」

「とにかくさ、俺はその擬音語というか擬態語というか、いわゆるオノマトペが気になるって話をしたいんだよ。」
「なるほどなあ。言いたいことは伝わったよ。賛同はちょっとできないけどな。」
気がつくと店に入ってから一時間が経過していた。二人は思い切りカップを傾けてコーヒーを飲むと、
会計を済ませ、店を後にした。

「『こちらブレンドコーヒーでございます』か、次から気をつけてみようかなあ。」
二人の会話を聞いていた店員がテーブルを片付けようとソファを回り込んできた。
「……コーヒー全然飲んでないじゃん!」

一つのカップからは、真新しい湯気が立ち上っていた。

コーヒーを上手に飲めない二人は、まだおっさんではないのかも知れない。


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