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短編小説 耳

「ねえねえ、綿棒どこ?」
湯上がりの熱気を纏ったまま、首にバスタオルをかけた由美子がドアを開けしなに言う。
「ごめん、うち綿棒ないんだよね。」
健二はなんとなしに眺めていたテレビから目を背け、由美子の目を見て答える。
やや棒読みの返事は台詞めいて聞こえた。
「えっ、切らしてるとかじゃなくて置いてないの?」
「そうなんだよ。テレビで耳かきしすぎると傷がついて良くないって聞いてから、耳かきしなくなったんだよね。」
自分の口から出たぎこちない声音に健二は少しうろたえた。
「ふーん。私はお風呂上がりに毎日するから、ちょっとびっくり。」
「耳に水が入ったなら、ティッシュが洗面所にあるよ」
「ありがとう、水は入ってないけど、ちょっと貰うね。」
そう言うと由美子はドアを閉めた。程なくして遠くからドライヤーの音が聞こえた。

肩まである長い髪を乾かす間に、綿棒への疑問は頭から蒸発したようだった。
先程までの話を蒸し返すでもなく、健二が見ていた番組を見てケタケタ笑っている。
(なんとかやり過ごせたな。)
健二は胸を撫で下ろした。

由美子から健二の最寄駅に着いたと連絡があった時、彼は綿棒が家にないことに気づいた。
「どうしよう、今から買いに行っても間に合わないな。」
しばらく前に買ったストックを探してみたが、見つからない。
(切らしてることにしてしまおう。)
「いや、空箱すらないってのは不自然だな。綿棒を置いてない理由を考えよう。」
こうして会議が始まった。
(耳垢を溜めて、寄付する計画だってことにしよう。)
「いや、耳垢ドネーションなんて聞いたことがない。」
「耳かきはママにしてもらうって決めてることにしようか。」
(言い訳としては通じるけど、由美子ちゃんにどう思われてもいいのか。)
こうして試行錯誤の末、耳かきの悪影響を説くことに決めた健二は、由美子を迎えに走った。

自らの言い訳がすんなり通用した喜びを噛み締めながら、健二は麦茶を飲み干した。
由美子は早くもテレビに飽き、部屋の中を眺め回している。
何かを見つけたように目を丸くしながら、健二に向き直る。
「CDとか置いてないんだね。てっきり沢山あると思ってた。」
「え、どうして?」
今度の返答にはぎこちなさは無かった。それだけ意外な質問だった。
「だって健二くん、外でもヘッドホンで音楽聴いてるから、音楽大好きなのかと思って。」

「音楽は好きだけどね。CDで買うほど好きなバンドはないかなあ。」

(まあイヤホンだと窮屈だからな。
 それにしてもこの子よくそんなことに気がつくもんだ。
 よく見てくれてるのは嬉しいことなんだろうけど、
 今度は何を聞かれるかたまったものじゃないな。)

「よく聴くバンドとかないの?」

(あとは皆で海に行っても泳がないこととか、絶叫マシンで耳を塞いでたこととか、
 つつかれたら困ることばっかりだな。
 どうしよう、言い訳を考えておくんだった。)

「ねえ、聞いてる?」
「あ、ごめん聞こえなかった。」
「こんなに近くで話してて聞いてないってことある?」
「いや、聞いてはいたんだけど、ちょっと聞こえなかったんだよ、ごめんね。」
「ふーん」

健二は左耳をぴしゃりと叩いた。
「何もそこまでしなくていいのに」
「いや、これくらい強くやっておけば、もう聞き逃さないよ。」
「そう。でも私そろそろ帰るね。終電も近いし。」
「え、明日の講義早いんでしょ?泊まっていきなよ。」
「ううん、大丈夫。健二くんなんだか疲れてるみたいだし、ゆっくり休んでね。」



広くなった部屋と、大きくなったテレビを眺めながら健二は再び左耳を叩く。
「お前がうるさいから由美子ちゃんが帰っちゃったじゃないか。」
(すまんすまん。つい心配性が出てしまった。)
「たまには俺一人で外出させてくれよ。」
(だから言ってるだろ。守り神の俺がついてないとお前はとっくに死んでるって。)
「せめて耳以外の場所に住んでくれないかな。」
(お前は何回同じことを言わせるんだ。穴という穴はもう試しただろ。俺が嫌なところ以外は。)
「由美子ちゃんに嫌われてないといいなあ」
(まあまあ。そんなんでお前を嫌いになるような子じゃないよ、あの子は。)

家に着いた由美子は急いでティッシュペーパーを鼻にあてがった。
「ちょっと!なんでいきなり暴れ出したのよ!」
(ごめんね。健二くんの家で流れてたテレビがあんまりにも面白くて。)
「だからって転げ回らなくてもいいじゃない。いつも暴れないでって言ってるでしょ。危うく健二くんの前で鼻血が止まらなくなるところだったんだから。」
(悪かったわよ。でも健二くんなら鼻血くらい気にしないと思うけどな。)
「健二くんに嫌われてないといいなあ」

由美子は上向きになり、鼻血を止めながら夜空を眺めた。
月は雲に遮られていたが、時折大きく満ちた曲線が顔を出す。
明後日には満月だろうか。


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