短編小説 「集積所の精」 その2

ようやく目覚め始めた脳細胞一つ一つの中を、違和感が満たし始めていた。
おじさんが視界から消えない。
ここまでラフな格好をしているからには、集積所の真前に位置する家か、せめて隣の家に住んでいるものと思っていた。
しかし既に三軒ほど隣の家まで来ているのに、おじさんはまっすぐ進み続けている。
「おかしい……こんなに遠くまでゴミを捨てに来るのか?集積所は他にもあるだろう。」

六軒目を超えたあたりから、おじさんに対する畏怖に混じって、尊敬の念すら沸き起こってきた。
そして隆史は気づいた。
「今、俺は家までの距離ばかりに気を取られているが、おじさんにとってこの道は既に帰路。
 おじさんは既にこの倍以上の長さを上裸で歩き回っているということか…… ものすごい度胸だな」

おじさんが歩いていく距離と尊敬の念が正比例していくのを感じていた。
頭の中には右上にまっすぐ伸びるグラフが描かれていた。見事な一次関数だ。
そこからはおじさんがどこまでも歩いていくのを後ろから眺めていた。

「おはようございまーす!」
乾いた朝の空気に、よく響く声が聞こえた。
黄色い帽子を被った子供達が数人、おじさんを取り囲んでいる。
「おはよう。明日からお休みだから、今日は頑張ってたくさん勉強するんだぞ」
「はーい!」
異様な風体のおじさんに臆することなくニコニコと会話をして去っていく子供達。
子供は人の内面を見るとはよく言うが、外面を全く見ていない訳だもあるまい。
子供達が怯えないということは、このおじさんはいつも裸で出歩いているんだろうか。

「あら、おはようございます」
「おはようございます、奥さん。このあいだはシチューをお裾分けしていただきまして、ありがとうございます。」
善良な市民の平均値を取ったようなどこかの奥さんと話すおじさん。
「社交性が……高い!」
隆史はおじさんを追い抜かないように少し歩みを遅めた。
「いやー、シチューの美味しい季節になってきましたね。」

おじさんのいう通り、秋から冬へ移ろうとする近頃、朝と夜の寒さは日に日に厳しくなっていた。
だからこそこのおじさんから目が離せないのだが。
「おじさんも少し厚着になってますものねえ」
聞き間違いかと思った。少なくとも、もし会話がここで途切れていたとしたら、隆史の中では聞き間違いとして処理されていただろう。
「いや、そうなんですよ。さすがに一枚重ねないときつくてね」
このおじさんは肌寒い時に下に一枚重ねるタイプのようだ。

おじさんは奥さんと別れ、また歩き始めた。
立ち話の間に隆史との距離は縮まり、ほぼ隆史の目の前を歩いている。
マットな質感の肌には一滴の汗も滲んでいない。
シチューをお裾分けしてもらうほどだから、あの奥さんとは住まいが近いのだろう。
それなのにおじさんは一向に立ち止まる気配を見せない。

おじさんはとうとう隆史の最寄りである地下鉄の駅に入って行った。
隆史はおじさんの後から改札を通った。
おじさんはチノパンのポケットから優しくPASMOを取り出すと、改札に優しく触れ、通って行った。
PASMOは高級そうな革のケースに入っていた。
「PASMOの方が厚着じゃないか」

思わず口に出しそうになるのをこらえながら、逆方向のホームへ向かうおじさんを優しい目で見つめていた。
おじさんはどこへ向かうのだろう。誰かと待ち合わせだろうか。だとしたらその相手はどんな格好なのだろう。
隆史は下半身を剥き出した同じようなおじさんを想像したが、法の壁に阻まれて待ち合わせ場所に辿り着けないだろうと思った。
頭に浮かんだはてなマークはこの十数分ですくすくと育ち、しばらくは消えてくれそうにもない。

しかし近所にあのおじさんが住んでいて、そしてみんなに好かれていることだけははっきりしていた。
「今度は声をかけてみようかな。」
普段は心持ちしかめた顔で乗っている通勤電車で、表情が柔らかく緩んでいくのを感じていた。

次に気の抜けた音が近所に響く日が、より一層待ち遠しくなっていた。

(了)


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