見出し画像

短編小説 Heartland

太陽では力不足だ。
薄い雲を透かした日光が地表までの長旅を終える前に力尽きる。
そこへ吹く木枯らし。
我が物顔で吹き荒れようものなら、思わず舌打ちの一つでも出てしまうところだ。
だが今日はそよ風のように遠慮がちだった。
日本古来の奥ゆかしさと言うか三歩下がった態度と言うか、遠路はるばるやって来た太陽へ遠慮をしているかのようであった。
風土という言葉もあるくらいだから、土壌なんかと同じように風にも特色が出るのかもしれない。
そう考えると風ひとつにも可愛げが出てくるものだ。
慎二は既に通り過ぎた風について、取り止めのない思いを巡らせていた。

柔らかい風も、この季節では確実に彼の体温を奪っていく。
天気が崩れたら一気に雪模様となってしまいそうなこの季節、彼は薄手のシャツとジーンズで出歩いていた。
玄関のドアを開けた途端に自らの無防備を悔いて、部屋へ引き戻しても不思議でないほど、天気と不釣り合いな格好。
そのまま出歩いても平気な理由も、風について無秩序な連想をしている理由も、大元は同じものであった。

彼の血液は運動量に見合わない速さで全身を駆け巡り、隅々まで体温とアルコールを行き渡らせていた。
すなわち、彼はしたたかに酔っていた。
昼前に起きて熱めのシャワーを浴び、その日初めての水分を求めて冷蔵庫を開けた。
小気味いい音を立てて開けたアルミ缶を傾け、よく冷えた中身を一気に飲み干した。
幸か不幸か、恐らくは不幸であるが、彼は中身の入ったアルミ缶を常にストックしていたため、そこから寝ぼけ眼の宴会が始まった。
適当にテレビのチャンネルを変え、飽きて来たところで録画していた番組を見始めた。
撮り溜めておいた深夜バラエティを休日に見るのが、数年来の彼の習慣だった。
学生の頃はリアルタイムで見ていた番組も、いつのまにか明日の早起きにとって妨げとなっていた。
休日に酒を飲み、何を見ても笑いが込み上げてくる状態でそれらを一気に見るのが、彼の楽しみだった。

仕事を辞めた後も、この習慣は残るのだろうか。
テレビに映る愉快な画を見つめながら、そんな思いがよぎった。
新卒で今の会社に入社してから五年、会社でも重要な仕事を任される場面が増えた。
会社の人間関係も良好で、業務上のストレスはほとんど無かった。
しかし慎二はそれらにやりがいを見出すことができなかった。
直感的に感じた「向いていない」という考えが何年も頭の中に居座っている。
自分が社会に必要とされているという自信が持てないまま、責任だけが増えている。
土曜日にケタケタと一人で笑う幸せな時間。
それを守るために収入を得ることだけが、彼の原動力であった。
職を変えようにも自信がなく、また環境が変わることへの恐怖もあり、転職をしようとも考えなかった。
「それでいいのかなあ、俺。」

ひとりごちて目を上げた時には、テレビの画面が固まっていた。
録画していた番組の再生が終わり、エンディング後のCMだった。
慎二の好きなタレントが商品を持ってジャンプをしようとした瞬間、目が半開きになったところで止まっていた。
彼はまた声を出して笑った。
先程までの鬱屈した思いが笑い声と共に細切れになって飛び出していく。
この折に気分を変えようと、彼は立ち上がり、スウェットをズボンから脱いだ。
着替えを終えた彼は、散歩へ出かけることにした。
「公園でもブラブラして、帰りにビールでも買って帰るかな。」
ここ一時間でかなり減少したと思われるストックを確かめるため、白い冷蔵庫のドアをもたれかかるように掴み、余分に体重を乗せて開いた。
「あれ、全部飲んじゃったかな。」
お目当ての銀の円柱は一つも残っていなかった。
「まあいいか、どうせ買ってくるし。ええと、つまみは何かあるかな…」
火照った顔に当たる柔らかい冷気に快さを感じながら、冷蔵庫の中を見回す。

「お?」
彼が目に止めたのは3個パックの豆腐でもなく、なぜか冷蔵庫に入れてあるミックスナッツでもなく、緑色の瓶だった。
「なんだ、まだ残ってるじゃん。」
一見なんだか分からない緑色の瓶に入ったそれは、彼が普段飲んでいるものより少しだけ高いビールだった。
普段のコンビニには置いておらず、少し遠いスーパーで見かけた時に気まぐれで買った。
もったいなさと王冠を開ける面倒さが相まって、飲むのを渋っている間に忘れていた。
「せっかくだし、飲みながら散歩しようかな。」
慎二は食器棚から栓抜きを探し出すと、王冠を開け、一口飲んだ。
既に彼の舌では数十円分の味の違いを感じることはできなかったが、右手に瓶を持ったままスニーカーを突っ掛け、家を出た。

寒空の下を歩く人は少なかった。
酒を持ったまま昼間から出歩くのは気が引けたが、それでも引き返さない程度には気が大きくなっていた。
「缶ビールならどこから見ても酔っ払いだけど、この瓶だと少しおしゃれな気がするな。」
すれ違った親子連れは彼をちらりと見たが、彼の持つ瓶というよりは、異様に薄着な彼の全身を見ているようだった。

公園に着くと、慎二は乾ききったベンチに座った。
触れた金具の冷たさに思わず手を引っ込めた。
遠くの方で子供がボール遊びをしている。
顔形は見えないほど遠くだが、澄んだ空気を伝ってここまで届いてくる高い声と、
黄色いボールの生き生きとした動きが、彼らの喜びを十分に表現していた。
両手で抱えたボールを投げ合ったかと思うと、片方がボールを持ったまま相手を追いかけていく。
彼ら自身はあんなに楽しそうなのに、何のスポーツを真似ているのか分からないほどルールのない遊びだった。
目的を持たずにあそこまで楽しめるものなのか、と慎二は驚く思いだった。
ずっと眺めているものでもないと思い、目を上げた。遠くに山が広がっていた。

よく溶かれた絵の具を伸ばしたような、均一な青さの空の下で、くすんだ茶色に染まった山は沈黙している。
同一線上ではしゃぎまわる子供達と鮮やかな空の間で、背景として埋没していた。
山の細部に目を凝らそうとしても、手前で動く二人の小さい粒や空の色に目を奪われてしまう。
そんな山に哀れみの目を向けようとした彼もまた、この景色の中では背景なのだと気づいた。
ため息をついてベンチに首まで預け、真上を向いてビールを呷った。

慎二は気づいた。
ビール瓶を透かした景色が真緑に染まっている。
瓶を持つ彼の右手と空が、色の区別を失って彼の眼前に並べられた。
彼は瓶を透かして、今度は遠くの山を見た。
枯れ山が真緑に染まり、生命に溢れた真夏の山を思い起こした。
それは彼が学生時代に見た山と同じ色をしていた。
彼はそれを奥多摩のキャンプ場で見た。
慎二はサークルの中心人物で、キャンプも彼から提案した。
万事が上手く進み、帰りに撤収作業をしながら眺めた遠くの山だった。

「あの時は良かったな、みんなが俺に力を貸してくれて。」
思い出に浸りながら、部屋から追いかけてきた鬱屈した感情に取り巻かれそうになっていた。
「いや、そうじゃない!」
ガラス越しに山を見続けながら、慎二は思い直した。もはや空と子供は緑色に溶け、彼の目には山しか映っていなかった。
「あの時と比べると、俺は何ひとつ行動をしていないじゃないか。」
その通りだった。彼は入社以来、失敗を恐れて周りの協力を仰ぐことを忘れていた。
「周りが俺を必要としないんじゃなくて、俺が周りを必要としていなかったんだ。」
慎二は立ち上がった。以前頭に浮かんだ、誰にも話していない業務改善案を実行に移そう。
そのために必要なことをリストアップするため、慎二は自宅への一歩を踏み出した。

しかし、と思い慎二は立ち止まった。
そして再びベンチへ腰を下ろした。
左手で木目を確かめるように座面をゆっくりさする。
今後やりがいを手にすることができて、忙しい日々が続いても、たまには今日のような日を持とう。
自堕落な日を作ろう。
力の抜けきった目で見る景色が、新たな気づきを与えてくれることもある。

帰りにビールを買うこと、そろそろ一杯になりそうなテレビの録画データを整理することを思い出しながら、
気の抜けたぬるいビールを流し込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?