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短編小説 「オムライスと夏の指」

 空調が効いているというのに、汗ひとつかいていないというのに、健二は眠れずにいた。
空想の世界から夢に落ちていこうとして、明日行く予定の新しい喫茶店の外観を目に浮かべ、名物のオムライスを思っていた。
二つのイメージが頭の中で溶け合い、一人でに動き出す感覚を味わう。オムライスの黄色は海辺の太陽に変わり、彼は砂浜を歩いていた。
とりとめのないイメージを追いかけるうちに右手の先にまわりはじめた甘い痺れが全身に広がり、頭に達するのを待ち構えていた。

健二はふいに目を開き、夢の世界に住む何者かが強く掴んだ手を振りほどいてしまった。右手に残った痺れを感じながら、健二は横を見やった。
明美が眠っている。大学の同級生である彼女は住まいが遠く、時々健二の家へ泊まりに来ていた。

 今日は都内で夜10時過ぎまでライブイベントがあり、家に帰るのを億劫がった彼女を迎え入れていた。
「夜ご飯食べる時間なくってさ。近くにコンビニあったよね?」
「駅から俺んちにまっすぐ来れば道沿いにあるよ。連絡くれたら迎えに行くけど。」
そろそろ連絡が来てもいい頃だと思ってから、20分ほど経っただろうか。
「明るい一本道だし、道に迷うはずはないんだけどなあ」
道路に出ると風がなかった。昼間の太陽光を蓄えたような夜の空気が道に滞留している。久々に現れた通行人である健二に、じゃれつくようにまとわりついた。
住宅街の割に本数が多い街灯には虫が集まっていた。羽音は聞こえない。


コンビニに着くと、目を輝かせながらチャーハンにぎりを見つめている明美がいた。
「連絡も忘れてチャーハン眺めてたのか。」
「携帯の充電が切れちゃって。そのうち来てくれると思ったからじっとしてた。」
小腹を空かせていた健二もカップ麺を買い、チャーハンにぎりと赤飯にぎりを頬張る明美と遅めの夕食を取った。
「シャワー借りていい?タオルと着替え持ってきてるんだ。」
狭めのユニットバスで明美がシャワーの音を響かせている間、健二は手持ち無沙汰で横になっていた。
入浴中の明美の姿がふと頭をかすめた。
明美が泊まりに来るたび、何かが起こりそうな予感を勝手に感じておきながら、自分からは何もできず、決まりの悪い思いをするのだった。


「もう遅いし、寝よう。明日暇だったらどこかご飯食べにいかない?」
「それなら私、あの駅にできた喫茶店いきたいな。オムライスが美味しそうでさ。」
「お前さっきチャーハン食べてなかった?あれも卵と米じゃん。」
「流石に別物でしょ、その二つは。しかもすごいんだよ、ソースが3種類から選べるの!」
ホワイトソースがけのオムライスを是非とも食べてみたいという明美の熱弁に半ば押し切られる形ながら、明日の予定が決定した。健二もオムライスは嫌いではないので、断る理由も見つからなかった。
「そうと決まれば今すぐ寝て、早起きしないとね。オープンしたばっかりだから、ランチタイムだと行列できてるかも知れない。」

 すぐに電気を消して横になった。明美はイベントの疲れもあってかすぐに安らかな寝息を発していた。
健二は寝つきが悪いため、目をつぶりながらゆっくりと眠りに入ろうとした。しかし眠りはすぐに破られた。
地の底から響くような低い音。ちょうど入道雲から落ちる遠雷のような音が一定のリズムで打ち寄せ、健二の頭にある晴れた砂浜をかき消した。
明美がいびきをかいていた。普段はないことだった。人は疲れているといびきをかきやすいという話があるが、今日のイベントではしゃぎ過ぎたのだろうか。


健二は苛立ちを覚えながら眺めていた。明美を、閉じられた口を、上下するTシャツの向こうの腹を。
暗闇でモノトーンとなった部屋の中で、今や明美の印象はいびきそのものに支配されつつあった。
その時、彼の目を引くものがあった。それは明美の鼻だった。

日頃は笑うと頬にできるえくぼや少し茶色い目ばかりを見ていたため、高くもなく丸くもないその鼻に注意を払うことなど滅多になかった。
今はその鼻が真上を向いて、明美の底から響いてくる音を増幅し、外界に放ち、健二にぶつけているように感じられた。
健二は強く惹きつけられるものを感じ、布団から起き上がり、膝立ちで明美の枕元に座った。
これまで想像はしていたものの、眠っている明美にこれほど近づくことなど起こり得ないことだと思っていた。そして、これからすることは脳裏に浮かんだことすらなかった。


思い描いていた形とはまるで違うものの、健二は緊張を覚えていた。
万が一明美が目を覚ましても、言い訳のできる姿勢と位置を意識しながら、右手をそっと明美に伸ばした。
あと10センチ。あと5センチ。あと1センチ……。


そして健二は明美の鼻をつまんだ。
先をすぼめた三本の指から、等間隔の大きい振動と、それに付随した不規則な細かい振動が伝わってきた。音で聴くよりも遥かに力強く感じられ、弾むような明美の内生命がそこに感じられた。
その生命は、今まさに健二の手に委ねられていた。空いている左手で口を塞ぐこともできる。そんなことはできるはずがないと理解しながらも、選択を委ねられているという事実が興奮を呼び起こした。
人間の溌剌とした生命に直に触れた感動と、それを自らの手で弄ぶことのできる愉悦の混じり合った感情に捉えられてやめ時を見失いながら、健二は鼻をつまみ、また離してを繰り返した。


「うううん」
と唸って寝返りを打った明美の鼻から解き放たれたように手を離し、指先についた脂を感じながら、健二は逃げるように布団へ戻った。
明美は何事もなかったかのように眉間のしわを消し、静かで安らかな眠りを取り戻した。
その夜、脂に濡れた健二の右手に甘い痺れが訪れることは二度となかった。

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