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短編小説 「異聞木譚」

「誰か正しい道を教えてくれ。」
こう言うものがあると、男は鼻で笑っていた。
 
 その男は冒険家だった。これまで幾つもの大陸や孤島へ出向いてきた。
そこで誰も見たことのない虫や鳥などを発見し、それら全てに自分の名前をつけることで、自らの名声を高めてきた。

 また男はいつも一人で冒険にでかけた。誰も見たことのない生き物たちを初めて目にするのは、常に自分でなくてはならないと考えていたからだ。
もし助手などを連れて行けば、自分よりも先に新発見をしてしまうかもしれない。
手柄を横取りし、自分が見つけたことにしてしまえば世間からの注目は独り占めできる。

しかし男はそれでは納得ができない性格であった。
常に一人でいることで、大事な決断はすべて自分で行わなければならなかった。それでも男の好奇心の方が勝っていた。
また男は自分の決断力に多大なる自信を持っていた。決断ができる自分が大好きだった。
「人に頼ろうとするやつほど、いつも結果に文句を言っているんだ。」男はそう考えていた。

 ある時、男は南の島にあるジャングルに冒険に出ていた。そこは植物が生い茂り、四方を木々に囲まれていた。
どこから危険が迫ってくるのか分からないだけでなく、進む道を誤れば抜け出せない恐れがあるほどの広さだった。
道に迷い、帰ってこなかった冒険家も何人もいた。それでも男は持ち前の決断力を活かし、どんどん奥へと進んでいった。
やがて男は池を見つけた。木々の間から見える空を映したその池は青く澄み通っていた。

「はて、この水は飲めるだろうか。私の経験からすると、口にするべきではなさそうだ。」
 男は持ってきた飲み水を確認した。
「しまった。帰り道を考えると全く足りないぞ。奥地まで進みすぎたか。この水が飲み水ならば助かるのだが。」
 男は誰にも聞こえないつもりで独り言を口にした。するとどこからともなく、
「旅の者よ。それは人間が飲むことのできる水だ。」
 という声が聞こえた。男が驚いて周囲を見回すと、池のほとりに立っている一本の大きな木からその声は聞こえていた。
「驚いたな。木が人間に話しかけるとは。この水はほんとうに飲めるのか。」
「間違いない。ある人間がここに足を踏み入れた際に口にしていたが、とても美味そうに飲んでいたぞ。」
 男は悩んだ。この得体の知れない木のいうことを信じ、水を口にするべきかどうか。男はこれまで全てを自分の意思で決めてきた。
そのため、意見をする者があるのは初めてだった。自分以外の意見を聞くことは好ましくなかったが、背に腹は代えられぬとも考えた。
男はやがて池のほとりに身をかがめ、手ですくってみた。嫌なにおいはなかった。試しに一口すすってみてもおかしな味はしなかった。
気がつくと男は何べんも手ですくって水を口に運んでいた。
量を気にせずに飲む水がこれほど美味しいものかと男は喜んだ。持ってきた容器にもたくさん水を補充した。

「ありがとう。おかげでもっと奥へ進めそうだ。」
 男は木に向かって礼を言った。
「礼には及ばないよ。」
 満足のいくまで水を飲んだ男は、体に力が漲ってくるようだった。危険に注意を払いながら、先ほどよりもどんどん奥へ進んでいった。

 ほどなくして、男は意図せず池のほとりに戻ってきた。
「おや、ここに出てしまうのか。長いこと歩いたが、珍しい生き物が見つからないな。」
男は木に向かって話しかけた。
「珍しい生き物を知らないか。」
「私は長いことここにいるからな。何が珍しくて、何がありふれているかが分からない。」
「確かにその通りだ。なんでもいいから生き物の住処を教えてくれないか。」
「住処は知らないが、日が暮れる頃に紫色のサルが連れ立って向かう方向なら知っている。
 お前の後ろに見える、オレンジの花がついた木の向こうだ。」
「紫色のサルとは見たこともない。ありがとう。おかげで大発見ができそうだ。」
「礼には及ばないよ。」

 男は大きな木に遮られた分かれ道にたどり着いた。
「はて、ここはどちらにいくべきかな。判断を間違うと道に迷ってしまうし、木に聞いてみよう。
 あの木ならなんでも知っていそうだ。」
男は来た道を引き返した。
「分かれ道があったのだが、サルの住処はどっちだ。」
「私には分かれ道もその先も見えない。どちらとも言うことができないな。」
「右か左かだけでも教えてくれないか。」
「そこまで言うのなら決めてやろう。お前が今あげている手の方だ。」
男は分かれ道に戻った。木の言う通り右に向かったが、すぐに次の分かれ道が現れた。
「なんだ、結局俺が決めなければいけないじゃないか。」
彼は自分で道を選び、草をかき分けて進んでいった。

 これまでの彼ならば、選んだ道がことごとく正しい道であるか、予想通りの道でなくとも期待以上のものを発見できる道であった。
だが彼の天性の勘は、他人の意見に頼ることを覚えたために輝きを失っていた。
男の選んだ道はおそらく間違っていたのだろう。歩けどもサルの住処は見つからず、大きな崖や谷に突き当たり何度も引き返した。
棘のある茂みに服を引き裂かれ、何度もつまずいて靴はボロボロになっていた。
「誰か正しい道を教えてくれ。」
そう呟きながら泣きっ面で歩き続けると、池のほとりへ出た。
既に暮れかけた森は輪郭だけを残し、黒一色に塗りつぶされようとしていた。
そんな中、見覚えのある大きな木が男の目に飛び込んできた。

男は木にすがりついて叫んだ。
「この森からの帰り道を教えてくれ。」
「そんなもの知っているわけがないだろう。私はずっとここに根を張っているんだ。」
背中を伝う汗が突然冷えていくのを感じながら、男は喚き続けた。
「君は物知りの木ではないのか。」
「誰がそんなことを言った。私は見たままを君に教えているだけだ。」
「森の動物たちに呼びかけてくれないか。彼らなら森の中を動き回っているから、帰り道を知っているかも知れない。」
「無茶を言うな。俺は動物となんか話せやしないよ。お前だってそうだろう。」
男は立ち尽くした。足は棒のようになっていた。崩れ落ちる力さえ残っていなかった。
破れた靴の底から出ている踵が冷たくなり始めた地面に触れていた。
それらが温度の境を失い、互いに吸い付いていく。
男はその感覚に身を任せていた。

これから何百年経とうとも、迷える旅人を救えるはずのないことも今の彼には分かっていた。

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