見出し画像

旅先で古本を求める

まえがき

  やらないことを決めると旅が始まる。何を決めたのか。一つの地域から電車を使って他の地域へ移動する、禅寺の庭をめぐる、喫茶店をめぐる、街中の料理屋をめぐる、和菓子を食べる。では一体、私は何をするのか。古書店で本を買うこと、走ること、歩くこと、それだけあれば十分だった。

 烏丸駅で降りてまず向かったのは大垣書店だった。東京駅の八重洲口から京都行きのバスを見繕おうとしたが、生憎京都ゆきには既に空きがなく、大阪行きのバスに乗った。車中では本を読む気分にはなれず、大阪からの阪急本線では眠気が襲ってきて読むどころではなかった。数分かうつらうつらしては、数行読んでまた微睡んでいた。読まない時間が十何時間か続いていたから、古本屋にいく前に烏丸駅至近の大垣書店に寄った。テーマごとに棚が分かれていること自体は他の新刊書店もやっているが、一文字でテーマを表していて目につきやすかった。ビジネス書は「商」、舞踊や伝統芸能の棚は「芸」といった具合に一文字で棚が括られている。入り口間近に京都の特集コーナーがあった。やらないことを決めてはいるが、BRUTUSの「京都で見る、買う、食べる、101のこと」を立ち読みをする。私以外の誰かがよいと思ったものを目に入れることで、本屋に行った際の瞬発力を上げる。棚を見ていて私が反応するものは、やはり私が見聞きしたものと関係するものばかりだ。知っている領域を緩やかに広げていくと同時に、今までとは全く異なる興味関心のものも読んでみたいと他者の目線を私の中に入れてみる。見る、買う、食べる、となると本から離れるのではと思うことはない。人間のよもやまを扱っているのが本なのだから、買うも見るも食べるもいずれは本となっていく。大垣書店を出て古本屋へ向かった。

 古本屋に入るまえにいたって簡単な準備をする。食事を取った。以前に神保町で本屋へ行こうとした時のこと、空腹なのに本屋へ行くほうが先決だったから、食事を取らずに本屋へ行った。すると大量の本に気圧されている心地になる、頭を上に向けて手の届かない本を見ていると疲れてくる。本屋は落ち着く、といっても落ち着くには前提条件があると知ったのはその時だった。要するに、食事を取って気力を養ってから本屋に入ろう。中華料理屋で炒飯を食べて、中国茶で一息ついてから古本屋へ向かった。京都では8軒の古本屋を下記の順で回った。

画像1

・三密堂  
・ブックスアンドシングス
・恵文社
・ホホホ座
・古書善行堂
・吉岡書店
・レボリューションブックス
・誠文社

 本を選ぶときに私に影響を与えているものが何かを感じた書店や、帰京した後に振り返っているときにあの店の雰囲気はここがよかったと感じた書店を中心に8軒のうちから何軒かつまんで話していく。

恵文社

 店の雰囲気がかっちりしているか、ゆったりしているか、が本を選ぶ際に私に影響している。ゆったりしている、というのを具体的に挙げよう。たとえば、本と同時に雑貨や文房具などを扱っている。たとえば、女性が小さな声で歌っている音楽が流れている。恵文社は、ゆったりしている本屋だった。ここは新刊と古本の割合でいえば新刊98%、古本2%の店だったと記憶している。ゆったりしている雰囲気だと、私はその店の中では割と少数に属する固そうな本を買う。ゆったりとしたところでそれに類した本を買ってしまうと、私の均衡が崩れそうで怖いのだ。現実に抗する力を失ってしまうのではないかと恐れている。本を選ぶ際には恐怖も作用している。反対に、かっちりとした本屋ではカルチャーに寄った本を買う。買ったのは文庫の大きさでベージュの一冊だった。本が無数にある空間のなかでは、物理的な存在感と心の中での存在感が逆転することがある。大判の厚い本や、面陳された本は、小さな本よりも空間を物理的に占めている。その大きさゆえに誰の目にも触れる。反対に小さな本は棚の中に挟まっている。唯一、人の注意を得る術は本の背の文字だ。しかし小さな本を一度手に取ると、もしかしたらこの本は誰にも取られず、今この時まで来て、目線を浴びせかけたのは私が最初ではないのかとときめくことがある。このとき、物理的な存在感と心中での存在感は入れ替わる。そして他にも大判の書物があるにも関わらず、小さな一冊を買うことになる。買った一冊。

「私の生活技術」アンドレ・モーロワ 中山眞彦訳 土曜文庫

古書善行堂

個人がやっている本屋では、家庭の都合などにより急遽、休みになることがある。だから土日であっても、SNSをしている本屋は開店のツイートを確認してから行ったほうがいい。開店しましたとのツイートを見てから向かった。今まで読んできた本の群との重なりを私自身がまだ見出せていない本が多く、食事を取ってきてから店へ向かってよかったとつくづく思う。知らない分野の本に手を出すには体力が必要になってくる。背表紙の題名が面白そうな本がある、その名も「文体」。結局は買わなかった。本を仕入れに京都へ、と意気込んで来たのだけど、知らない本をいざ買おうとすると尻込みしてしまう。この尻込みが続くと何も買えなくて終わってしまう。尻込みをしていると、ご主人が話してきた。たくさん本が集まり過ぎて、狭くてすんませんな、見たいものあったらどかしますんで、と、気の良さそうな感じのご主人だった。帰京したあと、引越しのために飲みながら本を束ねていると、ご主人のいい感じが沁みてくる。私にとっては、お店でものを買うのは個人的な営みであるから、なるべく店員の人から品物を勧められるのは避けたい。本屋だろうと、服屋だろうと割とどの店でも、一人でじっとものを選ぶというのは共通している姿勢だ。同じ話しかけられる、でも品物のことを話されるのと、取りたいものあったら言ってくださいね、とは全く異なる。お客としてはなるべくなら喋りたくない私には、店主の人の一言で少し助かった気分になった。本を紐で縛りながらそんなことを思っていた。縛った本の中には善行堂さんで買った2冊も入っている。新居では早速、紐を解いた。これから読んでいく。少しずつ時間をかけて読んでいく部類の本のような気がする。
・「アメリカの鱒釣り」リチャード・ブローディガン 藤本和子訳 晶文社
・「ひとりは誰でもなく、また十万人」ルイジ・ピランデロ 脇功訳 河出書房新社


 京都の旅から帰ってくると急いで引越しの準備を再開した。行く前には衣類や食器の片付けを済ましていたが、本を縛るのはまだこれからだった。これまでの休みに結構な冊数の本を買ったつもりでいたが、数えてみると4百冊に満たなかった。なにも冊数の多寡を人と競っているわけではない。ゆくゆく本屋を開くには、まだ冊数が足りない。だから少し落胆した。帰京して本を数えていると落胆をしたが、それを割り引いても京都で古本屋を歩いたのは、買い手としても売り手としてもよい経験だった。主語は私ではあるが、私が本を選ぶときにその手を左右する感覚や、私が好ましく思う店主と客とのやり取りとはどのようなものか少し分かった。売るにしても、買うにしても身体の感覚は大事にしておく。先週で会社を辞めて、今週から古本屋でのバイトが始まった。明日の仕事を控えて、京都でのことを思い出す。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?