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お金の価値について

知り合いに大きな借金をしていることが発覚して、とても動揺している自分がいます。自分が動揺したところで何も解決はしないのですが、お金の価値や、それに支配されてしまう弱い人間の存在というものを身近に感じて、ただ驚いているという状況でもあります。

もちろんお金というのは、あればあるだけ良いと思っている自分がいます。それは、僕がお金持ちではない人生を送っているからに他なりません。高級車を乗り回して、タワーマンションに住んで、毎晩のように高級寿司店を巡り、年に何回もファーストクラスで旅をするような人生を一度で良いから体験してみたいと思う日々。僕がお金持ちだと感じるわかりやすい人生はこんな感じです。

しかし置かれた状況によって、お金持ちの基準というのは全く違ってきます。例えばですが、パートをしながら暮らしている人に比べたら、正社員である僕の人生はお金持ちに他なりません。正社員の人はボーナスもあって、ミニバンに乗れて、毎日のように自販機でコーヒーが買えていいなぁと思われているはずです。

つまり、自分より収入の低い人からしたら、少しでも待遇の良さそうに見える人のことは、みんな「お金持ち」であり「良い暮らしをしている」と思われがちだということです。でも正社員だからといって「裕福である」とイコールではありません。毎日お寿司なんか食べられないし、外食もできないし、コンビニに行って弁当の価格を見てぎょっとする。スタバのドリンクの値段を見ても「うっ」てなるし、近所のガソリンスタンドの価格をこれでもかというくらい暗記して、本当に1円単位の節約をしながら暮らしているのが現実なんです。

ただ働いているだけでは全く給料はあがらない。物価上昇だけが延々と続く負のループなので、相対的に貧乏になっている自分がいるのです。自分の貯金に置き換えても、円の価値が下がっているので、こちらの側面から見ても貧乏になっていると言えます。ひたすらに貧乏なんです。

ここでお金の価値というものについてもう一度考えてみたいと思います。お金で得られるものというのは「経験」と「モノ」の2つに大きく分けられるでしょう。

まずは経験です。旅行だったり、流行りの飲食店に行ったり、人気の映画を見たり、航空機でファーストクラスに乗ったり、新幹線でグリーン車に乗ったり、金額を気にせずタクシーに乗れることもそうですね。モノとして残らずに記憶として蓄積されていく価値です。たくさんのお金がある方が、安全で質の高い経験をすることができるので、人生の幸福度は上がります。人生の幸福度はお金が絡むと「世の中で良いとされる人生」を基準にしてしまいがちなので、とても難しいのですが、やっぱり現代社会では、その経験を優先的に享受することができるというメリットもある。人間が存在する限り新しいテクノロジーやサービスが生まれ、それを享受できる人と、享受できない人の差が開いていき、享受できる人は人生における肯定感も上がる。

次に「モノ」です。こちらの方が生きている上でお金の本質に触れられるのではないでしょうか。つまり「物質的に幸せになるためのお金」ということです。ブランド品、高級車、家、家電、家具、スマホ、パソコン、美術品、さまざまです。ネットを見て、SNSを見て、世の中の本当にたくさんの人が「こんな服が欲しい」「こんな車が欲しい」と想像を膨らませながら、手に入らない人生にやきもきしています。その人生を手に入れるために頑張って働いて、その先を歩いている人に追いつこうとしている、ほとんどの人がこんな感じの人生じゃないだろうか?

でも本当にそれって必要なものですか?

欲しいと思った時が買い時だし、お金があるのなら買うべきだとも思う。もちろん僕もそんなマインドで生きているのですが、今の自分の収入のランクと照らし合わせて、例えば100万円で買える中古車でも移動の時間は変わらないのに、300万円出して新車の大きな車を買ってしまうとか、同じ機能を持った洋服なのに、高級ブランドのロゴが小さくつくだけで、その価値が何十倍も価格差に反映されてしまう。でもその服が欲しいと思うんです。それって、世の中が「このブランドはこのランクの人が身につけるもの」というブランディングによって、価値が固定されており「そのブランドを手に入れたり身につけることのできる人間であるという価値の自分」を高めることができるから、その商品が欲しいのです。

買う時って単純に、欲しい、欲しくないという理由で物事を考えがちなのですが、本質的にはそうだと思っています。「こう見られたい」「隣の人がこうだから、自分もこうなりたい」という目に見えない他者との比較にいつもさらされている。でもそれに支配されすぎてしまうと、自分の身の丈以上の暮らしを維持するために、お金に振り回されてしまう。

プロ野球選手とかのニュースでよく見ますよね。現役の頃の金銭感覚が抜けきらなくて、借金して自己破産みたいな。でも周りもみんな同じような金銭感覚で生きてて、高級なお店に連れてってくれるとか、高級な車に乗っているとか、自分もそういう人間である、この暮らしを享受できる選ばれた人間であるという優越感を捨てきれないんです。誰かのお金でそういった優越感に浸れる経験をしてしまうのも、金銭感覚がおかしくなる原因の一つでもあります。

とても大事なことだと思うのですが「その時に持っているお金でできることの理解」がしっかりできないと、あっという間に人生は破綻します。

買えないのなら買う必要のないものという理解で良いのです。僕の感覚ではクレジットカードを使っていても、ローンを利用するにしても、家を買う時以外に借金をする必要は全くないと思います。でも麻薬のように、その生活があったころの栄光や、近くに一つ上の暮らしを見せてくれる人がいて、自分もそうなれるはずなのにと思い込んでしまったら、身の丈以上のことを享受するためだけに生きていくことになる。つまり自分基準じゃなくて、誰かの基準軸で勝手に自分の人生を振り回されていくだけだという、とても悲しい結末が待っている。そんな人生で良いの?って思ってしまうんです。

自分がずっと前から手に入れたかったとか、行きたかった場所があるとか。だからそのために頑張るという動機は大切です。そういう基準でお金を使っても全然良いと思うんです。むしろ大事じゃない?と思う。

しかし生活のレベルを落とせない人は、どう考えたって必要じゃないのに「自分は成城石井でしか食材を買わない」とか、よくわからないこだわりを持っていたりする。そういうこだわりの積み重ねがお金の価値を狂わせて、潰れていく。

カミングアウトしますが借金をしていたのは妹でした。結婚して子供もいる。旦那の稼ぎでは本当にギリギリの生活しかできない感じでした。実家は大きな会社に勤めていた父のおかげで、世の中から見たら勝ち組の生活を送っているように見えたと思います。それこそお金に困ることはないし、新しいスマホや新車で車を買うとか、お正月には豪華な食事をするとか、宅配ピザを頼むとかもそうです。子供の進学時にかかるお金とか、結局お金のかかることを全て実家に依存していた。常にお金がない、お金がないと言っていた。そんな妹がリボ払いで数社から100万円単位の借金を作っていたことがわかりました。その背景にあるのは「実家にいれば享受できた生活のランク」を維持するためだったんじゃないかとも思いました。もちろん子供のために生活を少しでも良く、という気持ちもあると思います。でも子供のためにやっていた貯金も使い込んでいたようで、お金のないストレスと、旦那家から受けるストレスで金銭感覚がおかしくなってしまったようでした。

その借金の肩代わりをしていたのは何を隠そう実家の両親でした。

ほとんど社会経験のない人間が何もしなくても手に入るランクの生活を手放して、お金のない人生に放り込まれたような「悲劇のヒロイン」という感覚もあったんでしょう。考えられる頭もないので「どうしよう、どうしよう」ばかり。誰にも言わずに隠せるだけ借金を隠して作れるだけカードを作って買い物をして、返済の督促が来ても、外には平気な顔をして生きていた。

妹もよくないし、そのお金を出してしまった親もよくない。また、必要以上に低収入だった旦那もよくない。普通は転職だったり考えて、収入を増やそうと思うはずなので。一体誰が誰の何を守ろうとしていたのか全くわからない事件の顛末。自分だったら妹に自己破産させるくらいの突き放したやり方をすると思います。そうやって世間の厳しさを教えるのも家族の役目だと思うのです。教育って大事。

お金の価値が理解できないのなら、痛い目を見せて勉強させるしかないのです。僕はどちらかというと親から「金がない、金がない」と言われて育ってきたので、親に頼らず自分で稼げるだけ稼いで、資産を守ることに徹しがち(ケチ)です。だからお金の使い方が上手ではないし、欲しいものを我慢すればお金も減らないというマインドで社会人生活を送ってきました。しかしそれでは幸福度も上がらないし、それでも車が好きすぎるので「そんなランクの車いる?」「まずはそのボロい服を買い換えなさい」とか周囲に言われながらお金を使ってきてしまった過去もあります。

お金は難しい。だから教育が必要で、これからの妹の人生がどうなっていくのか不安ですが、なるようにしかならんよね、と思っている自分もいます。問題に対して必要な措置を滞りなくやっていくだけなんです。お金で支援するのではなく「お金を得る方法」か「お金がなくてもできる暮らしの方法」を教える方がよほど本人のためになる。

やり直しじゃ!

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