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自分に向いている仕事

自分という人間にとって、一番向いている仕事はなんなのか?

転職に向けて活動を行っていますが、今の仕事を辞めたわけでもないので、毎日当たり前のように大量の仕事が降ってきます。家に帰って座り込み「つかれたー…」とうなだれていると、ふと以前の職場にいた同僚のことを思い出しました。

その同僚は、僕が全く興味のない商品に目をキラキラさせながら仕事に取り組んでいました。こんな楽しいのにお給料もらっていいのかな、とまで言っていた。休みの日には「他のお店に行ってきたんです」と写真を周りに見せていた。僕はそのキラキラした光景がものすごく辛かった。なんで自分はこんなに苦しんでいるのに、目の前にいる人はこんなに楽しそうなのか。休みの日は仕事のことを全く考えたくありません。小売業なので、商品のこともそうですが、職場の人のことも全部です。もう僕という人間の頭からつま先まで、全てを仕事と切り離そうとしている。

もちろんこれじゃダメだよなと感じたこともありますので、めちゃくちゃ自分に負荷をかけてこの仕事を好きになろうとした。でもダメでした。

会社はこうやって仕事に興味を持ってる人に大きな仕事を任せるべきです。そして責任のある仕事をしている人にはたくさんの給料を支払う。そうでない人にはそれなりの給料で我慢してもらう。

適性を考えず、勝手に年数で立場を与えられ、その結果が満足できないと「立場」を理由に相手を縛ろうとする。そういえば相手が「わかりました」と納得すると思っている。そうじゃないんです。本当に人の気持ちをわかっているのかな?と不安になる。前提として、よほどのきっかけがないと人間の心なんて変化できないんです。だったら、組織の判断で有能な人を引っ張り上げて、それで責任と一緒に給料も上げてやる。スピード感をもって優遇していかないとダメなんです。もちろんそれでダメだったら他の人を引っ張る。その繰り返しで良いんです。だって組織なんだから。

僕は今の仕事に対して、それほど責任感を持って取り組んでいるわけではありません。社会人失格だと思います。それでも必要最低限のことはやり、成果も上げている。それを「根性が全て」「全部自分の耳を通して仕事が進まないと気が済まない」というマインドの上司から見ると手を抜いているように見えるみたいで、この前「君は自分の立場というものをわかっていないし、責任も持っていない。立場を考えて。立場を」という指摘を受けました。

立場?

僕はその瞬間、さらにこの仕事への熱量が失われていくのを感じました。脳がシャットダウンしたというか、目の前に立っている上司が石像に見えるくらい、景色が色のないものになっていきました。

僕は立場や役職で物事を考えるのが苦手です。はっきりいうと嫌い。年功序列とか最たるものなんですが「その仕事に対して一番最高の成果を上げることができるであろう可能性の高い人に任せる」というのが組織における仕事のあり方だと思うんですよね。僕は自分の無能力さをこれでもかと自覚しているので、自分が苦手だと思う仕事であれば、小さなことでも「これは誰にやってもらうと一番早いだろうか」という考え方を常にしています。もちろんその仕事というのは、僕がやっても期限内に仕上げることができます。でも自分という人間のキャパには限界があるし、マンパワーにも時間にも限りがあることは明白なんだから、部下だろうがパートさんだろうが、ばんばん任せれば良いんです。

これは勝手な僕の持論なのですが「立場」や「責任」という言葉で区切りをつけて、相手を縛りたがる人は「人生が健康で病気も怪我もしないまま、100年くらい続くと思って仕事をしている」ように見えてならないんですね。朝から晩まで会社にいて、仕事がさぞかし好きなんだろうな、羨ましいなと感じる。でもその思想というのは現代人のほぼ全ての人にとって、価値を持たないものだと認識しています。持論ですよ、持論。本当はみんなが望む仕事を手入れて、ガンガン働いて生産性も収入も満足できる社会が良いんです。でもミスマッチは絶対に起きるし、人間が経営している以上搾取され続けるし、この問題も永久に無くなりません。

僕も20代はプライベートの時間が全くないほど働きました。朝の8時から夜の23時くらいまで肉体労働でした。会社員なのに、月に休みが4日くらいしかない時もありました。休みの日にもクソほど電話がかかってくるので、予定を入れることが怖くなるくらい働きました。嫌でした。もう一生分、今の会社に貢献したと思っています。でも給料は全く上がらない。それは会社にとって僕という人材が「給料を上げるほどの価値がない人材だから」に他ならないからです。それでいて上司や組織からは「立場、立場、立場」と叱責される。

今、組織の中で駒となって働く人に求められているのは決められた時間の中で最大限の成果を出す人材です。どれだけサービス残業をしても大丈夫だった時代の思考で説教をされても、根性論の「お客様第一であれもこれもそれもやる!さぁ動け!」と言われても、全く響かないんです。誰がやんの?どこにそれだけの仕事をやる人がいるの?結局「立場」を押し付けられた一部の人間が長時間労働することになるんです。もちろん仕事に情熱を持っている同僚はいるだろうと思います。組織の中で昇進していくことを目標にしているような人は「今、偉い人」の言うことを正しいと信じて大量の仕事をこなしていくでしょう。それで良いんですよ。そういう人がすぐ上に上がって仕事をしていくべきなんです。

組織の都合で責任を与えるのなら、その責任に対しての待遇が必要です。日本の会社の場合、ちょっとお小遣いが増えましたという程度の昇給で「責任、立場、責任、立場」といろんな人から凶弾されます。日本人は本当に「責任と立場」が大好きだなぁと感じます。ちなみに僕は「責任」と言われる立場に任命されても1円も給料は上がりませんでした。僕はこの責任に向いてないと分かっていたし、待遇的に受け入れることもできなかった。その不満がしぶとく心の中にあるのです。

病気をして、自分で我慢の効く限界というものを知れるようになりました。ここまで行ったらまた倒れるな、という体からのSOSに敏感になったとも言えます。健康な人が叫ぶ「根性や我慢」は今の時代も、美しい、素晴らしいという錯覚をされがちです。しかし目的地を目指す途中においての成長の機会であることと、理不尽にただ耐えるだけの我慢は違います。

僕が日本社会の風潮というか、教育の場面で間違っているなと思うことはたくさんあります。僕は教育者ではないので、ただ爆弾みたいな持論をふっかけるおじさんに過ぎませんが、もっと噛み砕いていうと次の通りです。

目指したいものがあるから、頑張れる。
だからその途中にある理不尽にも耐えられる。

身も心も滅ぼされるような理不尽はどの世界で生きていても存在します。そこから逃れることはできません。だからこそ、目の前の理不尽は乗り越えるべき対象なのか?それとも離れるべきなのか、という判断が必要です。でもなぜか日本は我慢を美徳にするので「我慢しろ。できないやつは、使えないやつ」という、我慢のレベルも定義も曖昧なままレッテルを貼り、排除してしまう。それは「自分はこのくらい我慢してきたんだから当たり前」という理由もあるでしょう。

多様性がこれだけ叫ばれている中で、こうした問題が消えないのは、今の管理職層が「24時間働けますか」で人生を送ってきたからです。みんなそうすること、それが当たり前だと思っているから、そうじゃない働き方をする人たちを受け入れられない。何か今までにない新しいことを!と叫んでる人も同じですね。結局「自分の気にいるもの」を求めているだけなので、部下がワンコのように舌を出しながら「こんなのいかがですかぁ??」ってやってほしいだけ。この程度の管理職なんてどこにでもいるでしょうけどね。

同じ組織で働き続ける基準って「超絶理不尽なことがあってもこの仕事を続けたい、続けられると思えるか?」というシンプルなもの。給料が高いから、休みが多いからという理由で良いんですよね。でも給料も低く休みもそこそこの仕事なら「この仕事が好きか?」という結論に行き着きます。僕はここで「YES」と思えない。どのくらい思えないかというとゼロです。全く思えない。だから消去法で転職するしかないのです。

じゃないと自分の生きた意味が無くなってしまうようで怖いから。

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