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福1原発事故に思う

卒業後50年の今日の状況を,当時想像できただろうか.2011 ・ 3 ・ 11には,最悪の原発事故が日本でも起きた.格納容器から環境に出てしまった放射能は拡散のー途,故郷も里山も海洋も変わり果てた.このような原発事故がこれほどすぐ起きるとは思わなかったが.通常の原発稼働で生まれる高レベル使川済み核燃料や,その再処理による環境汚染が生活を脅かし,原発だけはやめたいと常々思っていた.それ故に今回の事故には大変がっかりしている.
1.高校2年の学園祭
高校2年(私は地学がやりたくてE組にいた)の学園祭に遡る.私は,学園祭の展示に「原水爆実験反対」を提案し.賛同を得た仲間と準備を始めた.「米国大使館に行ってみよう」と思い立ち,数人の仲間と出かけたことがある.我々の学年は,1年で60年安保(6月に樺美智子さんの死)に出会っている.米大使館に行ったのは.全くの野次馬で,案の定,資料も何も見られず.入り口で帰って来た.私は,その直後,体育の授業中に目を怪我し,手術,ひと月近く学校を休むことになる.学校へ出てみると,とっくに学園祭は終わっていた.携帯電話もない時代のこと,仲間に何の連絡もできず休み,学校に出るとすっかり浦島太郎状態だった.淡い青春の想い出である.
2.福島原発建設時の想い出
大学院に進学した1968年の夏休.巡検で三陸海岸まで行った.まだ.高速道路もできていない頃だ.随所でトンネル工事が行われ未舗装の道もあった.ジープに東大地震研と書いてあるためか.パトカーに出会っても止められることもなく,敬礼して迎えられ愉快だった.平(現.いわき)から.相馬へ向かう途中,大熊町・双葉町を通る.車で樹木の道を半日走っても数軒の集落に出会う程度だった.後日知ったことだが,福島県は,当時.ここを県のチベットといい.積極的な原発誘致を進めた.福1の1号機(GEのBWR)は,格納容器の据付が終わり耐圧試験に合格した直後(2号機の原子炉設置許可も下りている),福2の富岡・楢葉・浪江町では,反対運動が起きていた頃である.
3.高木仁三郎さんとの出会い
私が,高木仁二郎さんにお会いしたのは.ライト・ライブリフッド賞受賞(1997)後の癌療養中の頃である.高木さんは普段通り講演をされた.私は,1995年に.高木さんの著書「宮沢賢治をめぐる冒険」の北海道新聞・書評を書いたことがある.この本は,原子力資料情報室の市民科学者として活躍した仁三郎さんが,科学(芸術も)をわれら農民のものにと羅須地人協会に打ち込んだ賢治に重なって見える良書である.原発だけは止めたいと思ったが,大手メディアは冷淡であった.私は,X線や中性子(原子炉利用)の実験をし.放射能汚染を完全に閉じ込めるなどは絵空事であると実感している.
4.原発は複雑系
原発稼働が無理であることはもはや隠しようがない:
(I)除染をしても処理場はなく,処理の目途のない使用済み核燃料を多量に抱え込んでいる.100万kwの原発を1日稼働すると,約3.7kgのウラン235が核分裂し.おびただしい放射性核種が生まれる.
(2)通常でも被曝労働が原発稼働を支えている.年間6万人を超す被曝労働の人海戦術で維持せねばならぬ原発とは何だろうか.
(3)環境への拡散.食品汚染.小児ガンの増加も隠しようがない.

原子力の莫大なエネルギーと時間は.ともに生命のスケールに合わない.山火事は最悪でも白然鎮火を待つことができるが.原発事故は自然鎖火を待つことができない.
原発のシステムを,その構成要素(装置ユニット,エージェント)を結ぶネットワーク(グラフ)として記述したとすれば,多くの線が集まるハブとなる節点がいくつかあり,複雑系の特徴をもつグラフが得られるであろう.もしハブが攻撃されれば.障害は雪崩となってシステム全体に広がる.事故のトリガーとなるのは,地震・津波だけではないのである.原発をなくして普通の生活ができるようにしたい.(2012.11.23)
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谷 克彦:民間企業の研究所で,放射光を用いた材料分析などに従事した.
現在は,数学と社会の架橋=数学月間のボランティア活動(SGK世話人)をしている.
数学月間の会(SGK)は,毎年,数学月間の開始日7月22日(22/7≒π)にイベントを開催している.

連絡先:sgktani@gmail.com

注)戸山高校卒業50周年記念誌(2013.8発行)p.92に掲載した.

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