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宮澤賢治と地学

作家にふれて 宮沢賢治と地学

「注文の多い料理店」宮沢賢治,金の星社(1982)p.271-280解説に掲載
青空,第5号,p.11-16(1982)に掲載

「ペン・ネンネンネンネン・ネネムの伝記」が書かれたのは賢治が稗貫郡士性調査をまとめ、盛岡高等農林学校研究生を修業した二十五歳の頃です。そして、これがくりかえし書き改められ、「グスコープドリの伝記」として発表されたのが、三十七歳で賢治がこの世を去る前年でありました。従って、この原稿の推敲は死を覚悟し、遺書を書いた後の療養中に重ねられたと考えられています。また、このほか、「銀河鉄道の夜」、「楢ノ木大学士の野宿」、「イギリス海岸」、「気のいい火山弾」などという地学に関係のある童話を残しています。賢治はすばらしい地球学者でもあったのです。
 「気のいい火山弾」-なんとおもしろい題名でありましょう。火山の噴火では、どろどろにとけたマグマが、火口から花火のように何百メートルも打ち出され、飛び散ります。そして、空中を飛行するうちに冷え固まったものが火山弾です。このため火山弾は、紡錘形をしていたり、また、まだやわらかいうちに、どしっと地面に落ちたりすると少しつぷれ、おそなえもちのような形になったりします。空中でぐるぐる回りながら冷え固まった証拠に、表面に帯のようなあとが残ったものもあります。火口から何キロメートルもはなれた所にまで牛や自動車ぐらいの大きな火山弾が飛ばされて来たりもします。火山弾の周りに散らぱっている稜のある小さな石たちとは、火山岩塊のことです。これらは火口の中ですでに固まっていて、噴火のときにこなごなになってまき散らされたジャリぐらいの大きさのものです。ベゴ石も草の中に散らぱっている稜のある石たちも、黒い色をしているとのことですから、玄武岩であろうと思います。諸君もどこかの火山のふもとで、とがった火山岩塊がパラパラまき散らされている所を歩いたことがあれぱ、所どころに丸い大きな火山弾が地面にめりこんでいるのを見たにちがいありません。賢治は、少年のころから何回となく岩手山を登山していますが、この岩手山の噴出物にも玄武岩が見られます。
 豊沢川の川原で石拾いに熱中し、「石っこ賢さん」と呼ばれていた賢治は、盛岡の高等農林学校に進み、地質調査や土性調査を行いました。上京して筆耕で働く一方、法華経の布教活動をしたり、本郷菊坂町の下宿の二階で心にあふれ出す童話をものすごい速さで轡きつづったりした時期もありました。「月夜のでんしんばしら」 「どんぐりと山猫」 「注文の多い科理店」などは、このころに作られたものです。

賢治

 賢治はその後花巻に創設された農学校の教師になりました。この学校は、畠山校長・賢治をふくめ全員で六名。生徒は二年生が十八名、一年生が四十四名であったといいます。賢治は、代数・英語・化学・農産製造・作物・土壌・肥科・気象・水田稲作実習を受け持ちました。現在、諸君が学ぶ教科内容に対応させると地学に相当するものが中心でありましょう。教科書などではなく、賢治自身が身につけたもののすぺてを教室に持ちこんだのですから、どんなにすばらしいものだったでしょう。
 この時期に自費出版した『春と修羅』を評して、佐藤惣之助は「かれは気象学・鉱物学・地質学・植物学で詩を書いた」 (「日本詩人」)と言っています。「イギリス海岸」「楢ノ木大学士の野宿」などには、地学の教科書よりはるかに生き生きとした地学が語られております。賢治の活動は音楽、劇、生徒を引率しての岩手山・イギリス海岸への野外授業、水田実習と実に楽しい。写真(次ページ上)は、生徒の卒業アルパム用にとられたものです。賢治も礼装用の服を着て、どことなくすましています。背景の黒板の図については、宮城一男が著書『官沢賢治の生涯』の中で次のように述べています。 ****
 「地質断面図は、まさに花巻を中心にした北上平野の東西方向の断面図である」-そして、図中の記号はt1,t2〔tertiaryの頭文字=第三紀(七千万~二百万年前)〕・d〔diluviumの頭文字=洪積世(二百万~一万年前)〕・a〔alluviumの頭文字=沖積世(一万年前~現在)〕を意昧するのであろう。
 記念写真は、賢治が「イギリス海岸」でえがいた次のような北上平野の生い立ちを示したものだったのです。 ****                                      
 「……それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ぱれる地質時代の終わりごろ、たしかにたびたび海のなぎさだったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺のふもとまで、一枚の板のようになってずうっとひろがっていました。ただその大部分がその上に積もった洪積の赤砂利やローム、それから沖積の砂や粘土や何かにおおわれて見えないだけのはなしでした。それはあちこちの川の岸やがけの脚には、きっとこの泥岩が顔を出しているのでもわかりましたし、また所どころでほりぬき井戸をうがったりしますと、じきこの泥岩層にぶっつかるのでも知れました。……」

諸君は、コンピュータを操作し、生活にとけこんだテレビも自由に使いこなしています。文明生活を営みながら、科学の答えのみを頭につめこみ、それでクイズのような試験に百点がとれたと喜び、すっかり理解したつもりで慢心してはいませんか。はたして、諸君は自分自身の頭で、自分独自の科学体系を組み立てたことがあるのだろうか。芸術・科学のすべての分野から自分に必要なものを引っぱり出して、独自でそれらをもとに自分という人間を基礎から構築したまえ。
諸君一人ひとりが小宇宙となれ。-わたしは諸君にこのように提案したいのです。
 例を挙げてみましょうか。今日では、技術があまりにも高度になり、あまりにも細分化されています。電子技術者でもテレピの設計を一人で行うことはありません。個々の機館を持った回路ごとに分担して設計が行われているのです。電子工学の講義をしている教授でさえも、自分の家のテレビの故障すら修理できないというのが現状です。この科学文明にどっぶりとつかった諸君は、物知りではあるかもしれないが、その知識は諸君のものにはなっていないのです。
 ロピンソンークルーソーのように無人島で文明を創り、生きることが諸君にできるでしょうか。諸君は麦を栽培し、パン焼きがまを製作してパンを焼くことができますか。粘土を探し出し、水がめを作ることができるでしょうか。牛を殺して精肉することができるでしょうか。
 もちろん、これらのことをすべてできるようにしろとわたしは言っているのではありません。今日わたしたちは豊かな文明世界において、科学の粋を集めた装置を使い、スーパーでは食品としての肉が手にはいります。それだからこそ、諸君は自分たちがそれらについてよく知っているという幻想を持ってしまいます。しかし、実際は、自分で手を下したことは何もないということに気がついてほしいとわたしは思うのです。諸君が快適を追求し、使用しているエネルギーが、地球の熱汚染を進行させ、諸君がまずいなどと言いながら食べる肉切れは、大きな牛を殺して得たものなのですから。地に足のついていない知識文明世界の表面をただよっている諸君、なんとたよりないことでありましょう。
 賢治が教えたことは、百姓という生活に密着していました。百姓、いや人間として必要なすペでの学問を教えたのです。気象学・地質学・鉱物学・化学・農学などに加えて芸術・音楽までふくめて一人一人の人間に小宇宙を完成しようとしたのです。

 賢治は四年間の教師生活を辞め、新しい生活にはいります。日照りのときはなみだを流し、寒さの夏にはおろおろ歩きという生活が始まったのです。
 羅須地人協会で、月に三度、集会を行い、「われわれに必須な化学の骨組み」などの講習にはガリ版刷りのプリントまで用意されました(二六八~二七〇ページ)。昭和二年一月二十日に行われた「土壌学要綱」の講義の冒頭にあったあいさつを参会者のひとりだった伊藤忠一のノートから引用してみましょう。
 「今日は土壌学です。働くつど必要とする土壌の概念をはっきり知っているといないとでは農業を経営するのにどんな大きな相違を来すか知れません。きわめて短時間に申し上げるのですから、限定された土壌学で、岩手県中部地域を標準とする点においてわれらの土壌学でもあります」

 その他レコード鑑賞などもありました。こうして、賢治は科学を農業に役立たせようとし、また、芸術的に生活を明るく楽しくするくふうをしたのであります。
 わたしが羅須地人協会跡を訪れたのは十月の末でした。それは、豊沢川が北上川に流れこむ付近(下根子桜)の見晴らしのよい川岸にあります。赤いサルピアが咲き、賢治が耕したという畑の周囲には、まっかに実ったリンゴが緑の葉の中で重そうに風にゆさゆさゆれ、地面にはへびがにょろにょろしていたのが思い出されます。

 賢治の生活は、人を救うために働く菩薩を思わせます。「みんなに『デクノボー』と呼ばれ、ほめられもせず苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい」と。そういえば、「気のいい火山弾」に現れる火山岩塊たちも「どんぐりと山猫」に現れるどんぐりたちも、些細なことで自他の区別をしようとしています。「頭のとんがっているのがいちぱんえらいんです。そしてわたしが一番とんがっています」 「まるいのがえらいのです。いちぱんまるいのはわたしです」 「大きなのがえらいんだよ、わたしがいちばん大きいからわたしが……」 「せいの高いのだよ」 「おしっこして決めるんだよ……」
 われわれは、どんぐりのけんかや、火山の噴出物が火山弾をばかにするなど、ぱかぱかしいと思います。けれども、お金のある人がいちばんえらいのでしょうか。数学のできる人がいちばんえらいのでしょうか。有名な人がいちばんえらいのでしょうか。
 いいえ、このようなことは何でもないのです。「さあ、たいせつ標本だから、こわさないようにしてくれたまえ」ていねいに包まれた火山弾には「東京帝国大学校地質学教室行」と書かれた大きな札がつけられました。些細なことで競争したがる連申にとっては出世とうつるでありましょう。しかし、ペゴ石は「私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません」と言つています。

霧の中を歩いてごらんなさい。木の葉のにおいがします。自分はその大気を吸いこむ。自分のはいた空気を植物が吸いこむ。どうです。自分と植物は同一の体に思えてきたでしょう。諸君の体を作っている原子のひとつは、かつてその植物の体を作っていたものかも知れないからです。この四次元宇宙の霖の中をぷかぷかただよい呼吸しているすぺての生きもの、わたしも、あなたも、鳥も、さそりも、植物も、全体が同じ一つの体なのですから。いや、きらめく気圈上層の氷窒素、岩石をふくめたすべてが自分の体と思えてしかたがないのですから。

  「あるいは 惚として 銀河系全体を ひとりのじぷんだと感ずるときは たのしいことではありませんか」 (一九二五(大正十四)年、弟・清六あての手紙より)

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