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眠れない夜の覚え書き


少し長い休みをもらって、また眠れなくなった。明後日は朝の7時から仕事だから少し焦る。夜が朝に近づくのを目の前で見ていると不安になる。眠ろうと思えば思うほど、起きた時に夢の中からなかなか出られず、ずっと起きていたように思う。今は、窓辺が白み始めているのをただ眺めている。

小学生のころから変わらない学習机の上に、飲まれないままのビールが3本と、読み途中の本が何冊か、昔の日記と、書き終えていない手紙。少し散らかっている。8年前に買ったiMacは映画を見るためのものになった。

出るはずだった部屋。どのみち片付けるからとおざなりにしていた。
まだしばらくここにいるなら、片さなきゃいけない。もらったプリンターを出さないと壊れてしまうかな。仕事場から持ち帰った写真集たちは本棚に入らないまま積み重なっている。手紙は好きだけど苦手だ。もらってしまうと捨てられない。小学校の初恋の男の子からの手紙から今日まで、授業中に回ってきたくだらないものも全部取ってある。捨てるタイミングがわからない。手紙を見ていると、みんな、いつも同じ字をしている。行はじめがぴったり揃っている人はどの時もぴったりしているし、黒色でもピンク色でも彼女の字はいつも綺麗だった。わたしは書き始めと終わりではもう字体が変わってしまうし、その日の気分で全然うまく書けないことがある。みんなもわたしと同じようにコンディションがあって、今日はうまく書けなかったな、と思うのだろうか。自分の字が日によって違うと思うのは自分だけなんだろうか。とめはねはらいがまったくない、この字を誰か覚えていてくれるだろうか。


今日、「劇場」を見終えた。
恋人が原作を読んで、主人公は外見にコンプレックスを持ってなくてはいけないとしきりに言う。でもわたしが見た永田は綺麗な顔で、丈の長いくたびれた柄シャツさえも着こなしていた。
永田の自分は何かを絶対に作れると思ってる自尊心が苦しい。でも結局何にもなれなくて、それを明らかにするのがこわくて他人を壊してしまうのもわたしの影にある。にげて、さきちゃん、という気持ちを自分の恋人に抱くこともあった。いつまで持つかわからない脆いバランスの上にある日常。これを理解するということ自体が、自意識過剰なのかもしれない。いつまで作り手ぶってんだよ。それとも本当にお前は作れるのか?自問自答。

最後のシーン、永田は役者だった。彼は今舞台の上にいるのだと。高校生の時に見た寺山修司の田園に死すのあのシーンがふと思い出された。なつかしい。もう見てから9年になる。演劇を観に行きたくなった。わたしは演劇の空気の振動が好きだった。それがある映画だった。演劇がなんでもできるなら、私たちにも不可能はないのかもしれない。元気になって、おいしいものを食べよう。旅行にも行こう。ごめんね。ありがとう。明日が来ること、夜が明けることは本当に喜びだろうか。愛とはなんだったのだろう。

わたしが抱いている先行きへの不安はコロナのせいじゃない。もちろんそれもあるけど、もっとわたし自身の問題だ。歳を重ねるたびに剥がれていくメッキをただ見ていることしかできない。なにかを好きでいることや信じることに理由をつけなくてはいけなくなる。夢にはエネルギーとそれにともなう努力が必要。くじけそうになる。そのうち「なんだってできる」から「もうどうしようもできない」時に変わる。ここにしたためても何も変わらない。わかってるよ。まだ今日は気付きたくない。できれば明日も。


ずっと続くと思っていた暑さが気づいたらつめたい風を運んでくるように、わたしにも新しい風が流れるといい。がむしゃらに立ち止まらなかった今までより、不安になりながら進む一歩の方が、わたしはずっと丁寧だと信じたい。



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