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ある六月の物語④

金曜の夜、会社の同僚2人に誘われ

郁人は飲みに来ていた。

ここは新人の時から来ている

会社近くの居酒屋。

きっかけは忘れたが

似たようなメンバーと

似たようなメニューで幾度となく来ている。

定食屋の様なテーブルが

等間隔に並んでいて

店主の手書きのメニューが

敷き詰められている。

ここに来ると、誰しもがメニューに悩み

目が忙しく動き回るのだ。

会話をしていても

油性ペンで忙しく書かれた

店主の文字が目に入り

ついつい頼んでしまうので、

テーブルの上はいつも満員御礼だった。

同僚の曽根が、お通しで出された

胡麻豆腐を今更食べながら

「今日さ、中田さんがまだ会社にいたから
誘ったわ。」

と言った。

郁人は、思わずむせてしまい

ジョッキを置きながら

驚いた事を隠す様に咳払いをした。

「この会に女の人呼ぶの初めてじゃね?
  あぁ、中田さんか…。」

もう1人の同僚の小林の声が

心なしかいつもより低かった。

この前見てしまった光景が

またあの日の会議室から戻ってきて

やるせない思いに、またさせられる。

テーブルの端に落ちそうになっていた

煙草の箱をたぐりよせ、火をつけた。

「遅くなりましたー。  」

煙草を吸い始めて程なく

千都が店に入ってきた。

「遅いですよー。 忙しかったんですか?」

曽根が、千都の座る椅子をガタガタと引いた。

男だけの馴染んだ空気の温度が少し上がった。

火を消しながら見る、真向かいに座った

千都の顔は、どことなく疲れていた。

朝とは違う化粧っ気のない顔。

決して美人とは言えないが、とても儚くて

綺麗な顔をしている。

メニューを見ている素振りで

千都を見ると、目が合ったと同時に

「吉澤さん、この前は雨すごかったよね。」

と片方だけ口角を上げて話しかけてきた。

「あの日は、ありがとうございました。
助かりましたよ、本当。」

よくある形式張った御礼をしてしまった事に

郁人は後悔をした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

曽根と小林は

明日は釣りに行くから、と

2人仲良く早めに帰って行った。

郁人は酒は弱くはなかったが

同じペースで飲んでいるとよくわかる。

この人は酒にかなり強いらしい、と。

千都が住んで2年目になるアパートの隣人と

初めて最近顔を合わせた話の後に

会話の間が空いた。

「中田さんって、彼氏いるんですか?」

千都は少し視線を落としながら

「最近別れたんだ。」

とセミロングの髪の毛を

耳にかけながら笑みを浮かべて言った。

それは、アパートの隣人の話の時の

千都の笑顔からは想像もできない

誰にも知られてはいけない

寂しい笑顔だった。

その笑顔に、郁人は気付かされてしまった。

自分は今、どうしようもなく

千都に惹かれてしまっている事に。

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    読んで頂きありがとうございます。
    誰かにちくっと届きますように。

                  LOW

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