見出し画像

vol.2 A面: 「鉄のカーテン」がなくなる日 ヒッチコック『引き裂かれたカーテン』/ロシアが再びカーテンを降ろす

MY NOTE RULES

1.
“noteを書こうとPCを開いたその日付” に関連する出来事をランダムにピックアップし、それについて綴っていく。

2. カセットテープのようにA面・B面(前編・後編)に分けた二部制スタイルで投稿する。

初回で定めたルールより


Today is…

5月2日は、グレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。

できごと
1989年5月2日、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網の撤去を開始。「鉄のカーテン」に穴が開けられる。


冷戦の火蓋を切った、チャーチル元首相の「鉄のカーテン」発言


「鉄のカーテン」という言葉は、ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)英元首相が1946年3月5日、アメリカのミズーリ州フルトンで演説した下記の一節を機に広まったとされている。

From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent.
Behind that line lie all the capitals of the ancient states of Central and Eastern Europe.

バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。

ちなみに「鉄」はロシア語でStalin(スターリン)の意味でもあるので「スターリンのカーテン」という駄洒落的要素もある(そもそもスターリンという名前自体が仮名なのだが)。

ウエストミンスター大学で演説を行うチャーチル元首相


「鉄のカーテン」とは、ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、西側の資本主義陣営と敵対している状況を批判的に表したもの。この発言は、旧ソビエト連邦と西側諸国とが40年以上にわたって対立した”冷戦”の火蓋を切った出来事と捉えられており、米ソ冷戦の緊張状態を表す言葉として盛んに用いられた。

「鉄のカーテン」というワードが世に浸透したのは上記のチャーチル演説以降であるが、この言葉自体は、チャーチルの発言より以前に用いられていた。

ロシアの哲学者であり作家のヴァシリー・ロザノフ(Vasily Rozanov)は1918年の著作『The Apocalypse of Our Time(われらの時代の黙示録)』で、「鉄のカーテンがギシギシと音を立てて下ろされ、ロシアの歴史にも幕が下ろされた」と書き記している。ちなみにロザノフは翌年1919年、ロシア革命後飢餓が蔓延するなか修道院で餓死した。

第2次世界大戦中には、ナチスドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は『ソ連、鉄のカーテンの後ろに』という論文(1943年5月)を書いたが、彼の言葉は人々の注目を引かなかったという。

時、場所、人物の三拍子が揃った時、言葉は絶大な力を発揮する

こうした歴史を辿っていくと「鉄のカーテン」という言葉を作ったのはチャーチルではないことは明らかだ。しかし言葉の破壊力は時と場所、人物の三拍子がそろってこそ生じる。チャーチルは決定的な状況で決定打を飛ばしたのだった。

そしてこの「鉄のカーテン」は、ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなったと言われている。

物理的な鉄のカーテンは当時の社説漫画で頻繁に描かれた


ヒッチコックが映画『引き裂かれたカーテン』(1966年)で描いたもの

ヨーロッパで「鉄のカーテン」を象徴する出来事は、1948年6月24日のベルリン封鎖、1949年の東西ドイツ分離独立、1961年8月13日のベルリンの壁の建設である。ドイツは両陣営によって東西に分断されたため、特に鉄のカーテンの影響を受けやすい状況にあった。

ベルリンの壁が建設された5年後に公開されたこの『引き裂かれたカーテン』は、冷戦時代の東ドイツを舞台にしたヒッチコックの晩年の作品である。

タイトルが示すカーテンとは言うまでもなく「鉄のカーテン」のことで、東西冷戦下のベルリン、カーテンの向こうの体制側と反体制側それぞれの人間模様と緊迫感が描かれている。

あらすじ
コペンハーゲンで開催される国際会議に出席すべく、船旅に出たアメリカの物理学者マイケル(ポール・ニューマン)と、婚約者のセーラ(ジュリー・アンドリュース)。途中、奇妙な電報を受け取ったマイケルは、セーラに行き先を偽り単身で東ベルリンへと向かう。不審に思った彼女は後を追い、彼が核兵器研究のために東ドイツへ渡ったことを知る。アメリカで開発の進んだ核兵器「ガンマ5」の軍事機密を共産圏へ漏洩することを意味するこの計画に驚いたセーラは彼を売国奴となじったが、この亡命計画には隠された別の目的があった・・・。

映画はおよそ前半戦・後半戦と分かれていて、前半は東ドイツに入り込んで情報を盗み出す事、後半は東ドイツから脱出する事が目的に置かれている。

ネタバレになるが、マイケルはスパイ活動のため東ベルリンへ亡命を装い潜入していた。実はこの「ガンマ5」は東ベルリンの博士の研究がないと完成しなかったもの。マイケルは見事にこの博士の方程式を盗み出し、脱出に成功した。

正直、ヒッチコックのサスペンスとして、スパイもの脱出ものとして観るにはスリル感がなくやや物足りなさを感じてしまうのだが、自分はその時代を体験したことがないからこそ、当時の東西対立の緊迫感と緊張感というのがヒシヒシと伝わってくるようだった。

「鉄のカーテン」撤去までの道のり

ベルリンの壁は、鉄のカーテンの最も有名な物理的障壁だ。ソ連の衛星国だったドイツ民主共和国(東ドイツ)は1952年、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)との国境に有刺鉄線で幅10メートルの緩衝帯を設置した。

しかし、ベルリンは当時東西に分断されてはいたものの越境は可能だったため、1952年から61年の間に約300万人が東から西へ脱出している。

東ドイツは1961年、労働力の大量流出を阻止するため壁の設置を開始。コンクリート製の壁は、全長155キロにも及んだ。

■脱出の試み

東欧諸国の市民が西側を訪問するには厳しい条件が課されていた。このため、許可なしで西側へ行こうとする人々は大きな危険を冒さざるを得なかった。歴史家によると、東ドイツからの脱出を試みて死亡した人の数は600~700人、ベルリンの壁を越えようとして死亡した人の数は約140人程。脱出に成功したのは約5000人で、ベルリンのシュプレー川を泳いで渡ったり、熱気球を利用したりした人もいたという。

■崩壊

鉄のカーテンに初めて亀裂ができたのは1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境開放を決定した時だった。
同年8月19日、ハンガリー・オーストリア間の国境は「汎ヨーロッパ・ピクニック」によって象徴的に数時間だけ開放され、600人以上の東ドイツ市民が国境を越えた。

東欧諸国ではそのすぐ後、共産主義政権が崩壊し始めた。東ドイツ市民はデモを始め、同国政府は11月9日に突然、西側への自由な旅行を容認。これにより数千人がベルリンの壁に殺到。混乱した国境警備隊は検問所を開放した。

興奮状態のベルリン市民は夜通し祝い、壁によじ登るとつるはしで壁を砕いた。それから2年もたたないうちソ連が崩壊し、それとともに鉄のカーテンも崩れ去った。

ベルリンの壁の上に立つ東ドイツの国境警備隊(1989年11月11日撮影)

ロシア陣営vs西側陣営 21世紀の「鉄のカーテン」再び

2022年2月24日のロシアによるウクライナへの全面侵攻の開始から1年余りがたった。欧米メディアでは「鉄のカーテン」という言葉が再び使われるようになっている。

1990年10月に東西ドイツが統一されたことで「鉄のカーテン」は終結を迎えたが、ロシアのプーチン大統領がウクライナへの軍事侵攻が始まると同時に、この言葉が再び世の中に放出されてしまった。

ロシアは西側との間に新たな「鉄のカーテン」を作ろうとしているではと囁かれており、それはバルト三国、ポーランドとベラルーシの間を隔てるもの。イギリスのFinancial Timesが「ロシアは再び鉄のカーテンの向こう側へ」というタイトルの記事を掲載したことは今も記憶に新しい。

ロシアは同盟関係にあるベラルーシに戦術核兵器を配備することでベラルーシ側と合意したことを明らかにしており、7月1日にベラルーシで戦術核兵器の保管施設の建設を完了させる方針を既に発表している。

最近ではウクライナのロシア支配地域の住民にロシア市民権取得の道を開く法令に署名した一方、国家の安全保障に脅威を与えたり領土の一体性を侵害したりした場合には取得した市民権を剥奪するとの改正法に署名。また、国家反逆罪の最高刑を従来の懲役20年から終身刑に引き上げる改正刑法に署名したというニュースが流れてきた。

ここまで理不尽な国内の締め付けを強化しているのは、国内でのプーチン政権への反発が高まってきたことの証左。仮に今ここがロシアだと仮定したら、私がこのnote上にロシアないしプーチンに対するネガティブコメントを投稿した場合、終身刑が適用されるということ。

恐ろしい言論弾圧、独裁国家。とても21世紀の所業とは思えない。こんな素人がとやかく言うことではないが、過去のどこかのタイミングで彼の発言・行動を制圧することはできなかったのだろうかとニュースを見るたび思ってしまう。誰にも止められずに今日まで積み上げられてきたその歴史の、計り知れないほどの重圧が世界中にのしかかる。

祈ることしかできず、平和ボケした国に身を置く自分のことを情けなく思う毎日だが、戦争のない、平和な世界が訪れることを心から祈っている。

B面へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?