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「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人」へ



結婚のシーズンと言われる6月である。
この時期になると、思い出す言葉がある。

藤子・F・不二雄の名作『ドラえもん』に出てくるセリフである。のび太くんとの結婚を前にしてナイーブになっているしずかちゃんに、しずかちゃんのパパが言う。

「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとって大事なことなんだからね」

しずかちゃんは、結婚を決意する。




当たり前のように聞こえるその言葉は、実はとても難しいことだと思う。事実、私は、他人の結婚を、心から祝福したことが無かった。別に他人の不幸を望んでいるわけでないけれど。

例えば、同級生から「結婚することになった」と報告を受け取ったとき、「おめでとう」とは言うし、祝福する気持ちはもちろんある。あるのだけれど、それが「自分にとって喜ばしいこと」と感じたことがない、ということである。

「おー、よかったねー」という感じとでも言おうか。どこか少し「そうですかー」という他人事感が、心のどこかにある。新郎新婦が共に知人である場合でさえも、そうだった。




初めての例外が、先日あった。
1人の友人の結婚報告を、私は心から喜んだ。

メッセージを読んだとき、わかりやすく「えっ!」と、1人暮らしの家で声を出し、そして座っていたベッドから立ち上がった。さらにわかりやすく部屋の中を、メッセージを読みながらウロウロし、そしてベッドの角へ足の指をぶつけた。

「おめでとう!」という返信以外思い浮かばなかった。返信を送った次の瞬間、心から「お祝いだ!」と思った。

心から、おめでたい、と思った。




中高で同じ部活だった、6年間とても仲の良かった同級生が結婚しても、私はそれを心から祝福できなかった。その「心から祝福できない」事実に、私も少なからず衝撃を受けた。そして私自身がショックだった。
あれほど仲が良かったのに。

私の心が、異常に冷めているのか。
不義理なのか。

でも、今回の友人はそうではなかった。
いったいなぜだろうな、と、自分のことではあるけれど引っかかった。




私は友人が少ない。性格その他を鑑みればそれは当然で、別にそれを良くも悪くも思っていない。ただ事実として、友人が少ない。だから、結婚の報告をしてくれた友人は、数少ない友人の1人である。

思い返せばその友人には、たくさん頼らせてもらった。

いろいろな話をした。
旅行の話、恋愛の話、友人の話、仕事の話、過去の話、未来の話。たくさん笑わせてもらった。それを私は、人前では一言で「面白い」と言ってしまうけれど、決して「お笑い」的な面白さだけでは無くて(それもあるけれど)、その人の感性や言葉が、とても興味深く、「面白」かったのだった。

ここまで書いていて、ふと、しずかちゃんのパパの言葉がよぎる。

その友人は、私が、例えば旅行の話や、恋人との話をすると、一緒に笑ってくれる人だった。その友人は、私が、例えば恋人と別れた話や、あるいは病気をしたりすると、心から心配してくれる人だった。
言葉に書くとそれは、当たり前のことに見えなくもないけれど、やっぱりこれは、しずかちゃんのパパが、のび太くんのその側面を褒めたように、決して当たり前のことではない。冒頭にも書いたように、自分にそれができているかと言われると、私の友人たちには悪いが、首をひねらざるを得ない。

その中で、私のその友人は、そういう人だった。
少なくとも、私はそう思う。




性別も年齢も違う、友人。
人によっては「友人関係は成り立たない」とでも言いそうではある。それでも、私にとってその人は、「大切な」いや「大切にしないといけない」友人の1人だった。

だから、私は、その友人がずっと望んでいた「結婚」、友人なりの「幸せ」を掴むことが、心から、嬉しかったのだと思う。




周りから、コミュ障と言われ(事実私でもそう思う)、怖いと言われ(これは理由が分からない)、変人と言われ(これも分からない)、ごく狭い人間関係の中で、ごく少ない感情の中で過ごしてきた私は、その友人に、たくさん助けてもらった。

だからその分も、私は、人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできるその友人の「幸せ」を心から祝福したいと思ったのだろう。




ウエディングドレスに袖を通すことさえままならないこのご時世である。
ずっと言っていた憧れを叶えてほしい。友人の最高の門出を、心から願う。

人の結婚式で、初めて、ボロボロと心から涙を流す覚悟も、それを拭くためのティッシュの用意も、もうできている。



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