【4月の第三週】ひみつきちのはなし【ある喫茶店にて】
カフェオレボウルは取り置きしてもらうことにして、その場ではお金を払うだけに終わった。
これであのボウルは私だけのものになった。
妙な満足感がある。所有欲というか支配欲というか、そんなものを刺激されている気がする。
何かを手に入れるときに、こんな気持ちになることってあったっけ。
意識したことのない感覚にちょっと不安を覚えはしたが、私はそれを上回る興奮に満たされてた。
……鼻息が荒くなってはいないだろうか。
いけない、ちょっと落ち着かないと。
「ありがとうございます。」とお礼を言って、私は自分のカウチに戻った。
そこには今、たった今、私のものになったカフェオレボウルが待っていた。
バナナブレッドや他の食器たちも待っていた。
なんて愛しい空間なんだろう。
このカウチもミニテーブルも、トレイの上のものたちも、ぜんぶ私を寛がせるために用意されたものなんだ。
それに気づいた私は感動してしまって、次の瞬間には涙腺が崩壊してしまっていた。
ぐずぐずと鼻を鳴らしていると、さっきまで気配のなかったおじさんが再び姿を現した。
「はい、これ。良かったら使って。」
と手渡されたそれは箱ティッシュだった。
お礼を言いながら素直にそれを受け取り、2枚引き出して重ねて鼻をかむ。
かみおわったタイミングで店員さんがゴミ箱を差し出してくれた。
めちゃくちゃ恥ずかしい気持ちと連携の良さが面白いのとが混ざって、私は声を上げて笑った。
「あはは、は。ふふっ、めちゃくちゃ、あははっ。連携、とれてる……!」
「阿吽の呼吸ってやつだよ、ねえ?」
「ええ、まあ。」
鼻をかみながら笑う私に、ボーン、と時計が時間を教えてくる。
盤をみると夕方の4時になっていた。
「あっ。」
たしかこのお店は4時が閉店時刻のはずだ。
「すみません、すぐに残りをいただいて帰りますから。あの、本当にすみません。」
結構な量が残っているバナナブレッドに向かおうとすると、意外なことに店員さんがそれを制止した。
「たしかに閉店時間ですし、普段でしたら退店をお願いしているところです。が、そんな泣き顔の女性を表に出すのはよろしくないですから、おさまるまではいてください。」
「え、そんな、いいんですか?」
「かまいません。ただ、他の部分の閉店作業はしますので、そちらだけご了承ください。」
「もちろんです。すみません、気を使わせちゃって……。」
「いえ、お気になさらず。」と言って軽くお辞儀をすると店員さんは自分で言ったとおり、お店の閉店作業を始めた。
おじさんはどこからか丸椅子とコーヒーカップを持ってくると、ちょっと空間に余裕を持たせながら私の斜め前に座った。
「ゆっくり食べて、飲むんだよ。僕も一緒にいるから、焦らなくて大丈夫だから。なんとなくだけど、一人で座らせていたら、あなたは一気に口に入れてなるべく早く退店しようとしそうだからね。」
「あ、あはは。そんなイメージありますか?」
笑顔でこたえたけど、おじさんの言ったことは大当たりで、私は彼の言ったことをそのままズバリ行動しようとしていた。
私ってそんなにわかりやすいんだろうか。恥ずかしいな……。
「なんとなく、だけどそう思ってね。あなたは変にまじめそうだから。それから、考えすぎで遠慮しい。気遣いができる、ともいえるけどね。コミュニケーションの取り方や、配慮のしかたがとっても現代日本人らしい。」
「はあ……。」
「気を悪くしてしまったら申し訳ない。さて、見られていては食べづらいだろう。僕は本でも読んでいるから、ゆっくりね。」
おじさんはそう言うと、近くに飾られている本の中から一冊手に取って読み始めた。
着流し姿とカフェの雰囲気で、「レトロっぽいな」と雑な感想を抱きながらおじさんの手元をみると彼が持っているのは赤茶色の大き目の湯呑みだった。
“おまかせメニューの先輩”だし、今日はカフェオレとバナナブレッドのセットだと教えてくれたのは彼だ。
つまり、飲んでいる物も食べている物も一緒だということ。
だけど彼はカフェオレボウルではなく、湯呑みでカフェオレを飲んでいたらしい。
まじまじと見てしまったため、視線に気づいたおじさんはくっくっと笑いながら湯呑みを置いた。
「おじさんなんて眺めても面白くはないでしょう。」
「あ、ごめんなさい。えっと、同じセットを頼んだのに使う食器は違うんだなって思って、それでつい。」
「ああ、そうか。うん、あの人はね、人に合わせて器を選んでいるんだよ。」
「人に合わせて?」
「そう。僕は物書きだから、両手で抱えてゆっくり飲むなんてスタイルじゃない。華奢な柄のカップも好まない。ガッと掴めて、どっしりした形で倒れにくいものを選んでくれたんだ。今日は結構、仕事が滞っていたからね。あまり丁寧に扱う余裕がないのをカバーしてくれたんだよ。」
「いろんなカップがあるんですね。しかも、今日はって言ってたから、別のが使われるときもあるんですよね?」
「ああ。たまにリクエストするときもあるよ。そういえば、この湯呑みにはよくお世話になるなぁ。」
おじさんはそういうと湯呑みを持ち上げながら楽しそうに眺めた。
私に合わせて用意してくれたのはカフェオレボウル。
おじさんが言ったように、両手で抱えて飲んでいる。
どうして店員さんは、私にこの器を選んでくれたんだろう。
おじさんの仕事の忙しさを察したように、私には「両手で抱えた方がいい」何かを察したんだろうか。
入口で迎えて、少し会話をしただけの私にそこまで考えてくれたんだろうか。
「う、うう~……。」
「あれれれ、今の話、そんなに感動的だったかなぁ。」
ちょっとおどけたように言いながら、おじさんが私に箱ティッシュを差し出す。
その後ろから「お客様を泣かせないでください」と店員さんの声がする。
私が勝手に泣いただけなのに、ごめんねおじさん。
でも、なんだか涙腺がゆるゆるなんだ。
いつもは「嬉しいな」くらいで済むはずが、今日はなんでだかずぶずぶ刺さってきて抜けないし、じくじくしてるんだ。
痛いんじゃないの、快感でもない、よくわかんないけど普段は避けてる感じのやつ。
なんで今は避けないでいるんだろう。
ちょっと困ったような、でもなんとなく余裕そうなおじさんの顔を見る余裕が出てきた。
まだ少し落ち着くまでにはかかるけど、心の中では謝ってるし、感謝してるから許してください。
鼻をかんで、カフェオレを飲んで、ナイフに手を伸ばすとバナナブレッドは最後のひとくちになっていた。
てんやわんやも、これで最後か。
ちょっと名残惜しいけど迷わず口に運んで、てんやわんやを楽しむ。
最後にほんのちょっと残ったカフェオレをすすって、私のトレイの上はからっぽになった。
「ごちそうさまでした。」
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