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再バリ

飛行機がバリ島のン・グラライ空港に到着する時にはいつもバリに居る神様に無事到着出来る事、これからの滞在についてのお礼や約束など心の中でお伝えします。
また日本に戻る時にも滞在中のお礼そしてまた参りますので日本でどうかお守りくださいと心の中でお伝え祈るのでした。(今は日本に戻る時には旦那様と一緒ですがバリにいる神様にお礼をお伝えすることは変わりなく続けています)
バリとかかわるようになり本当に近くに神様がいるのを幾度と感じる事が起こります。。。

以前のバリの空港は赤れんが作りで飛行機を降りると独特の香りがして「あー戻ってこられたのだ」と実感できたのでした。
でも今の空港は大きくなりそんな香りもせずなので少し寂しさを感じます。。。

当時のバリはノービザで2ヶ月の滞在がOKで日本では2ヶ月オープンのチケットを購入していたのでした。
その当時はシンガポールエアラインを利用していて夕方成田を出発し夜中にシンガポール・チャンギ空港に到着し8時間くらいのトランジットの後、朝の9時半くらいにチャンギを出発するフライトで昼前にはバリに到着出来るものでした。
チャンギは広く空港内にいろいろなお店やホテルもあり乗り継ぎ便を待つ外国人も待合シートでも寝ていたりしたので一人でも全く問題なく過ごせたのでした。(私もお気に入りのシートがある場所がありそこでいつも寝ていました)
熟睡まではできなくてもバリへ行くことが出来る喜びや清掃作業や店の開店準備の人を眺めチャンギでのトランジットも楽しめたのでした。
空港の朝焼けは本当にきれいでそれを見た後マレーシア人のおばちゃんがやっているお粥屋へ行って朝食を食べるのでした。(ここは他の店より早くオープンするのでした)
マレー語はインドネシア語に似ているので通じたのでした。
外資系でのお仕事でしたが流暢な英語はできず独自で勉強したインドネシア語もなんちゃってなのでなんちゃって外国語を駆使していたのでした。(大切なのは通じること!!!)
行きのみがトランジット時間が長いのですが、日本に戻る時は1時間しかトランジット時間がなく2ヶ月のオープンチケットはSQが安かったのでした。(JALやANAでも繁忙期でない場合には安いオープンチケットがあったのでその時一番安いチケットをとっていっていました。)
そしてSQはなにより安全面も最高ですし、スーツケースが32kgオーバーでもいっさい追加料金はとられないのでした。(いろいろ加味するとやはりオープンチケットはSQが一番ということで使用していたのでした)
また機材の飛行機もいち早く座席前のモニター付きが導入され個人で好きな映画を見られるし、乗務員の皆様の対応もよく一人でも快適な空の旅だったのです。

スーツケースは日本からバリへ行くときはお土産などでパンパン!
バリから日本へ戻る時はバリでのお買い物の戦利品でパンパン!!
その後はSQでも日本を朝出発し当日の夜にはバリにつけるフライトも安くなっていきますますSQでの旅となったのでした。

その当時バリ到着時にスーツケースにチョークで×印がついていたら荷物検査で止められるという印でした。(必ずこの印があると出口で止められたのでスーツケースが壊れているかの確認をしながら消していました)
今は別の印となっています。
勿論へんなものはもっていったことはないのですが、なんせスーツケースを開けると最後には自分におみやげはないのかと必ず聞かれせっかく友達に買ってきたものなどを取られるのでめんどうだったのでした。
現在はその辺もしっかりしているようですが、人にもよるし面倒な事はなるべく避けたかったのでした。

空港の出口でお迎えの旦那様を見つけるのが本当に毎回ドキドキでした。
Kちゃんとのバリではなく旦那様に会う為の一人でのバリ行きなので万が一お迎えに来てないと空港タクシーしかないのでドキドキでした。

空港のお迎えや見送り等、遠出するときにはローカル用のレンタカーを借り、バイクはバリで購入して日常はバイク移動でした。
観光客用のレンタカーとは違い、ローカルでお祭りの時など用に日、週、月単位でレンタル出来るのでした。
(この移動手段につてはまた別に綴ります。。。。)

Kちゃんも仕事が自由に休みを取ることができたので2ヶ月の長期滞在が可能で当時は宿泊先のバンガローのオーナーの奥さんの弟さんを彼氏にしたりしていたので仕事の調整の都合で同じ日の出発や帰国ではなかったのですが一緒のバンガローでの長期滞在となっていきました。

親戚のバンガローはウブドのメインストリートから北へ1kmのところにありました。
敷地内には2F建てで4室、離れに1室のバンガローでした。
その奥にはオーナー家族が住んでいて裏に車やバイクを止めていたのでした。
旦那様はこの時ロビー横にあるスタッフルームに他のスタッフと一緒に住んでいました。
ここのオーナーの奥様がアメリカ人とビジネスをやっていて旦那様はKちゃんの彼氏のペインターの手伝いをしていてギャラリーでお仕事などしていたのでした。
旦那様はそれまでにジャカルタなどにもKちゃんの彼氏のアシスタントで絵を描きに行っていました。
Kちゃんの彼氏はこの時オーナー家族と一緒に裏に住んでいて6畳くらいの部屋がありました。
その部屋の内装などはKちゃんの彼氏が自分でやったようで壁には大きな貝殻などが埋められていて素敵な部屋でセンスを感じるものでした。
絵、音楽、語学、となんでも上手にこなして日本語も私とKちゃんとの会話を聞いただけですぐに覚えたのでした。
旦那様はそんなKちゃんの彼氏にいろいろ学んでいました。
それから夜は必ず4人でご飯&飲みにいっていたのでした。

バンガローで私はいつも向かって1F右側の部屋や離れで、Kちゃんは1Fの左側の部屋でした。
オーナー家族もスタッフも日本語は誰一人できませんでしたが反対にそれが私のなんちゃってインドネシア語の上達に役立ったのでした。
オーナー家族はお父さん、奥さん、子供が3人で長女、次女、末っ子の長男くん、おばあちゃんと裏の小学校でワルンを経営しているおばさんでした。
長女は当時高校生でおしゃれにめざめバリのトレンドを紹介してくれたり連れて行ってくれたりしました。
クバヤやサロンのまき方や着方なんかもこの長女にならったのでした。
その長女はもてたので長女に会いにくる男子がいたのですが、時間が遅いとうちの旦那様はこの時間に来るのは失礼だし礼儀に反するから明日出直せと突き返したりしていました。
(昭和のおやじのようでした)
次女と末っ子の長男は年子でこの子達といつも遊んでいました。
私のインドネシア語の先生でした。
ここの長男くんは旦那様がとても可愛がっていてサロンのまき方など旦那様は男性の方法ではないのですがこの旦那様のまき方がかっこいいからと旦那様がいつもやってあげていました。
そんな関係でローカルの女性と同じようにクバヤやサロンには流行りがありそれらをつくったり、集めたりするようになりました。
(クバヤは身体に合わせオーダーしますが、作る人によりちがうので上手な人を口込みで紹介してもらい作っていました。そしてデザインにもこだわりがあり、袖のギャザー、前身ごろの長さなど毎回説明してのオーダーでした。また見本の洋服を持つて行き日本で買った布で同じデザインの服を作ることも出来たのでした)
旦那様は日本で素敵な布を購入したものをサロンにするのでおしゃれなローカルのおばさまにいつもどこで買ったのかと聞かれていたりしました。
祭りの衣装は本当に個性豊かで変化もあるのでとても楽しいです。
なにより祭りの衣装はかっこよくみえるし、キレイにも見えるのでおしゃれ競争も激しいです。
そしてそんな祭りが出会いの場にもなっていてみんな張り切って祭りに出かけるのでした。
でもこの祭りの衣装を着るのにはスタイルが良くないと似合わないのでバリへ行くときの前はダイエットがかかせないのでした。

その宿泊先のバンガローにはアメリカ、フランス、スペイン、ドイツと長期滞在者も多くいて全員がインドネシア語での会話となっていたのでした。(英語もみなさんできましたが、インドネシア語が共通言語)
ロビーで夜遅くまでみんなで会話したり歌を歌ったり、パーティーしたりとこのバンガローでのひとときは本当に楽しかったです。

またオーナーの奥さんがビジネスをいろいろとやっていてそのビジネスでも成功されていました。
アメリカ人のビジネスパートナーが別荘をつくり不在の時はホテルとして貸したりしているところのマネジャーもやっていたりしたので良くそのプールにも遊びにいきました。
渓谷沿いに建てられていて渓谷と一体化するインフィニティ―プールで夜は★がこぼれんばかりにまたたいていました。
その当時最先端のデザインでようやくインフィニティ―プールがちらほら出来始めてバリ島でのホテル建設ラッシュ、そしてJALが大々的にバリ島を売り出しアジアンリゾートのバリと変化していくのでした。

そんな関係で私も早いうちにそのホテルの近くの土地8A(1Aは2M×2Mなので16M×16Mでヤシの木18本付でした)をその奥さんの仲介で購入したのでした。
しかし、外国人は直接の土地の購入はできないので旦那様名義にして私と旦那様は別契約を締結し私のサインがないと土地の売買なども出来ない契約書の作成までやってくれたのでした。
当時この土地問題で外国人が騙されていることが多くあり、現に同じバンガローに宿泊していたアメリカ人のおじいちゃんが、騙されていくつかもっていた土地を全部取られてしまったということがありました。
おじいちゃんだったので親切にしてくれる他のバリ人が近づいてきて騙されてしまったのでした。

そのもっていた土地の様子を見にいっていたときあぜ道を歩いていて道路に戻ろうとしたとき50cmくらいのあぜ道から平らに見える草でおおわれた場所に飛び降りた時「バキッ」と音がして右足の甲を斜骨折してしまったのでした。(骨折は最後に病院で判明するのです)
その土地から帰る時やはり痛いといったらローカルが行くドゥクン(祈祷師)がいるからとそこに連れて行ってもらいオイルで実は骨折している個所をガンガンマッサージしてもらったのでした。
しかし、激痛!!!で泣きさけびましたーーー!!(だって折れているのだからそりゃいたいよーーーー)
でもローカルは病院へは行かず骨折でもこのマッサージで完治させるのでした。。。
私の様子がそうとう面白かったのか順番待ちのバリ人達、そして旦那様も大笑いしていました。
本人は涙流して痛みに耐えていたのにーーー!!!
しかし、そのマッサージをしたら歩けるようになったのです!!!(折れたところが偶然はまったのか・・・・)
これ本当で少し痛みはありましたが歩けたのです!!!
恐るべし!!!(懲りずにギブスが取れた後もマッサージには通いました)
そんな大騒ぎでお腹が空いていたのでいつも行くウブド中心のローカルレストランに行ったのでした。
(ジョグジャカルタカフェといってなんでもおいしくリーズナブルだったので頻繁に通っていてスタッフとも顔なじみでした)
でも実際は折れていたので、歩けるようには一瞬なりましたが、食べているうちにみるみるうちに紫色に足が変色し腫れてきました。
折れるとその箇所が紫色に変色する事は知っていたのでやはり折れているなと思い保険はかけてきていたのでデンパサールのカシイブ病院へ急遽車を借りて行ったのでした。

保険対応だと伝えると北海道に医療の勉強にも行った事があるバリ人医師で、経緯とマッサージの事を伝え、多分折れていると言われました。
ではレントゲンをとりましょーーーとなったのですが、レントゲン室に運ばれて「東芝」と書いてあるちょっとレトロなレントゲンで足のレントゲンをとりました。(あの東芝の文字は忘れられません・・・・)
ごめん、ピントずれていた、
ごめんね、今度は明るすぎた、
あれー今度は真っ白だーとレントゲンだけで1時間以上かがりやっとまあまあの出来の1枚ができあがりました。
おいおいこれー足だったからあれこれKちゃんと私で技師さん的な人に指示して出来あがったけど他のところなら確実に死んでいると思ったのでした。
でもこのレントゲン1枚とるのも大変だったのですが、大笑いして楽しかったのでした。
懇親の作のレントゲンでは右足のお姉さん指と小指の甲のところが斜めにきれいに折れている様がみえました。
(このレントゲン写真は思い出にとくれたので今でももっています。。。。。思い出にレントゲン写真をもらえる事もないので身体をはり貴重な体験しました)
それからギブスをされ骨がくっつくまで3週間という診断でした。
実はこの時2日後に少し早めに帰る予定にしていたのですが、航空会社に連絡して一人では歩けないので帰国日を伸ばしてもらう事になりました。
保険会社と航空会社の皆さんに大変お世話になったのでした。
そのときはあまり遊びに行けない私の為に旦那様はお得意の技で鳥をとってきてくれてカゴも買いこの3週間世話をしたのでした。
それ以外は子供たちがずっと遊んでくれたのでした。
歩く事もできなかったので旦那様が移動の時はおんぶしてくれたりしました。
バリはバリアフリーとは程遠く車いすなんて無理なのでおんぶが最適でした。
だんな様が不在時にはスタッフが二人かかりで運んでくれたのでした。ほんとに皆さんよくしてくれました!!

持っていた土地ですが、ケガをした土地となったので3倍以上になったので売ったのでした。
本当は他の土地を購入する予定でしたが手元にお金があるといろいろと使いたくなるもので土地は購入せず店を作ったり、引越費用にしたり、葬式の費用にしたりとなくなっていきました。。。
そんな時ウブドで土地と建物付で350万での購入話や現在のカキアンバンガローの向かいの土地2Aを100万円で購入しないかという話もありましたが、購入せずでした。
購入しておけばとこの件だけは後悔がありました。。。。でも元々ご縁がなかったのでしかたないですね。

オーナーの奥さんは働き者の私の旦那様を信頼していてよく運転手にして買い付けなどにも一緒につれていってもらいました。
奥さんはよく旦那様の事を本当に働き者で他の人が投げ出す仕事も最後までちゃんと責任もってやる人だといつも褒めていました。
ローカルのそれも女性がバリバリ仕事をする姿はかっこよかったし、一緒にいろいろと連れて行ってもらった事もとても勉強になりました。
そしてここの家族の皆さんにバリの儀式、バリの生活、バリというものを教えてもらったのでした。
旦那様にも私との付き合いはちゃんとしなくちゃだめだと言ってくれていたようでした。

当時2ヶ月の滞在でも日本円で20万バリへもっていけばバンガロー代レンタカー代も含めて2ヶ月十分楽しい生活ができました。
その当時同様に長期滞在している外国人もたくさんいました。
勿論日本人もいましたが自分が選ばれてバリに来たから普通の人とは違うというなんともへんてこな考えの人もいていろいろと意地悪もされたのであまり日本人には近づかなかったです。

旦那様とのバリはウブド中のレストランの全制覇、バリの観光地の全制覇を目指していろいろなところへ一緒に行きました。
そしてそれらをまとめてバリに行く友達にお勧めレストランと観光地情報をあげていたのでした。
また大好きなエステやローカルのマッサージ店にもいろいろ行きましたが、あまりの強さで翌日全身打撲のようになったこともありました。
身体をはっての体験がなにより面白く情報として正確に伝えることが出来たのでした。

この当時バリの人は自分の村や住んでいる地域だけでいろいろな観光地へ行くことは少なかったのでした。
そしてだんだんと外国とは違う生活なのだと気づいたバリ人は未来を悲観して自殺する若者が多くいてそれらが問題になっていたりしたのでした。
(今ではバリ人でお金があれば海外へも遊びに行けるのですからすごい進歩だと思います)
それまで殆どの観光地へ行っていた私でしたが、バリ人は案外自分のテリトリーから出ない人が多かったので旦那様も初めての場所となる事も多かったです。
(以前は観光地とは程遠い場所が今は観光地になったりしていてまた行くのが楽しいです)

その中でも私の一番のお気に入りはタマンウジュンでカラガッサム王の宮殿跡地で以前火山噴火で壊れてしまって廃墟になっていたのでした。
今では水の宮殿としてインスタスポットになっていますが、以前は本当に廃墟でほんの一部高台の宮殿跡地が残っていてそこからの眺めが本当に素敵で何度となく訪れたのでした。

また北部のシガラジャには宿泊先のオーナーの奥さんの実家もあり良く通っていました。
このシガラジャには旦那様の卒業した高専があり旦那様はシガラジャにも友達もいてどこより詳しかったのでした。
旦那様は兄弟の中でひとりだけ遠くのシガラジャで寄宿舎生活の農業関係を学ぶ学校にお父さんに言われて行ったそうです。
多感な時をシガラジャで過ごし、卒業後にはウブドへやってきたそうです。
この為地元のクルンクンはあまり詳しくないようです。

その親戚のイブ/お母さんは旦那様の事を何故かとても可愛がってくれていました。
(旦那様は何故か年配の人にとても可愛がられるのでした)
とても厳しいイブでしたが私のことも同時に可愛がってくれてシガラジャへ行ったときは必ず寄るようにいわれたのでした。

シガラジャの親戚の家はターミナルの裏にあり朝からイスラム教のお祈りが爆音で流れる場所でおのずと超早起きしていたのでした。
その家にはサルや猫、犬が飼われていて当時のバリでは犬猫は野良が殆どで自宅などで小型犬など飼うというのは殆どありませんでした。
今ではたくさんの人が小型犬を家で飼っていますね。バリもどんどん変わっていきます。。。

シガラジャはオランダからの制圧を最後まで受けた場所なのでヨーロッパ様式の家が多く残っています。
(バリの家つくりとは全く違うヨーロッパ様式で天井が高くしゃれたお家もたくさんありました)
また北部独自の食文化がありシガラジャはおいしい物がたくさんある場所です。
なんといってもちょっと下町っぽくてやんちゃな人も多くいるシガラジャでしたが、それが面白くて頻繁にシガラジャへは行っていたのでした。
そしてターミナルには夜市がたちブブ―ルアヤム/鶏肉のお粥とエスチャンプル/かき氷に果物入りがおいしくいつも食べていました。
そしてランチはシオバといい豚肉の部位をいろいろと調理して甘しょっぱいタレをかけて食べるものをよく食べていました。(つけあわせのキュウリがなんともおいしいのでした)

どうしても食べたくてデンパサールのティアラデワタの駐車場近くのシオバ屋さんを友達に教えてもらい食べにだけ行ったこともあるくらいシオバは大好きなのでした。
シガラジャは本当に何を食べてもおいしい場所です。
そしてお菓子も他の地域とは違っていて玉子などをよくつかい日本の和菓子屋のような店も多くあり良く食べていました。
なにより物価が安く、面白いものがたくさんあるのでした。

シガラジャの中心街から少し行った先に北部の観光地の中心ロビナビーチがあります。(ドルフィンが見られたりする黒砂のビーチが有名です)
ロビナはバリの観光産業に少し遅れをとっていて昔ながらのバリがあり宿も安く、レストランもクタ、ウブド、セミニャックの価格より数段安いので外人の長期滞在者がとても多くいて短期旅行の日本人はあまりいない観光地でした。

そして旦那様の友達のお家のご飯にもよく招待してもらいました。
そのお家はお父様がドゥックン/祈祷師で可愛いお母さんは昔バリで有名な踊り手で海外遠征にも何度も行ったそうでその当時の写真も見せていただいたりしました。
そこのご飯がまた超超超おいしく、旦那様も自分の子供ようにかわいがってもらっていて寄ると連絡しておくと大好きなドリアンをとっておいてくれ、食べきれないご飯を準備しておいてくれて友達(本当の子供である友達)がやきもちを焼いてしまうくらいでした。
ここのドリアンを食べてドリアン好きになりました。今では大好物です。

お母さんが若い時大統領だったスカルノさんからもお誘いがあったくらい可愛いく、それをドゥックンのお父さんが阻止して結婚に至ったと話をしていました。
ドゥックンのお父さんはエロ話も大好きでお茶目でとても可愛い人でしたが数年前に亡くなってしまいました。
また可愛いお母さんも今年亡くなったと聞きました。
今その友達が若い奥さんをもらい子供と3人で暮らしています。
その友達は旦那様にドゥックンのお父さんからタトゥーなどを入れると輪廻転生の時肌に疾患が現れるので絶対にダメだと教えられたそうなのですが、その友達は今全身タトゥーだらけでもう入れるところもないくらいです。
旦那様はタトゥーが入っている風貌ですが入っていないのです。
その教えをくれた友達が全身タトゥーとは複雑な心境だと話していました。
この友達の家族は姉、3人男兄弟で姉、お兄さんは既に他界していて今はこの友達とかっこいい弟君のみになっていますが、この弟くんもタトゥーを入れていました。。。
だめだ!!!というとやりたくなるようですが、タトゥーを入れたとドックンのお父さんに話す時は超ドキドキしたと話していましたが、あっさり認めてくれたようです。
この辺もバリらしいなと思います。
友達はみかけ怖いのでセキュティーの仕事をしていてウブドで店を営んでいたとき店の部屋に住んでもらっていたおかげで泥棒には1度も入られたことはなかったのでした。
今でもバリに帰るとクルンクンの家に私の好きな湯で落花生と椰子砂糖のかかったクルップ/せんべいをお土産に来てくれたりします。
旦那様の親友の一人です。
その友達はお父さんがドゥックンだったこともあり語り継がれている石などをいつも旦那様と私にくれたりしました。
この友達の影響でパワーストーンが好きになったのでした。

シガラジャからの帰りはバリ版ロミオとジュリエットと言われているジャナプラナ寺院やプラキ、ギリマヌク、ヌグリを通りウブドへ帰宅したりしていました。
それらの風景は観光地のバリとは全く違う建物、食べ物も全く異なりとても楽しかったのでした。

その中でも大好きな道がありシガラジャのスリリッからジャナプラナまでの道はジャングルの中を通っていく道で乾季には道に大量の蝶々がいて車が通る時に大量の蝶が羽ばたく様もあるのでした。
あの風景は今でも鮮明に覚えていますがこの世の物とは思えないくらいの蝶の羽ばたきはとてもきれいでした。
またジャナプラナ寺院へ恋人同士で行くと結ばれるという伝説があり、行ったのでした。
そして勿論結婚したのちにお礼参りにいけたのでした。
そしてその時大好きなミンピリゾートに宿泊していたのですが、ここはプライベート温泉もあったり広い敷地内にも温泉プールがあったりするところで結婚後も母や友人をつれて何度も訪れたのでした。
部屋付の温泉もありここは依頼しておくとその時間にお湯をためてくれるのでした。(勿論部屋なので水着なしで入れます)
近くに観光地がないミンピはホテル内のレストランでも格安でご飯も食べられたのでした。
その当時はダイビング客しかいなくて昼間は温泉プールが貸し切りでした。
今でも変わりなくあるようで絶対に次は行こうと決めています。
そしてこのミンピとの関係は不思議な繋がりがあるのですが、それはまた別の機会に綴ります。。。

今後バリへ恋人通しで行かれ本当に結婚とか考えている人で少し長くバリ滞在が許される人は是非ジャナプラナ寺院へ行って欲しいです。
派手さはないですが、とても素敵な場所にあります。
道路からは登りの階段を上がった先にある小さな寺院ですが、ここの雰囲気が大好きです。
周りは野生の猿や動物、鳥などもいてまた違ったバリの良さがあるところです。(ジャングルのにおいと音がします)
もし上まであがれなくても道路沿いにお供え物と聖水をもらえるところがあるので立ち寄るだけでも是非行って欲しいところです。
ここは観光地化されてはいませんが、今でもバリの若者がおとずれる場所となっています。

ウブドでは昼間はいろいろと観光地へでかけ、夜はシャワーをして服も黒色のもに着替えてローカルが集うレストランやバーへいくのが定番でそこにいくと長期滞在者の友達にも会えるのでした。
その頃の友達の一人はバリカフェチャンプルの奥様です。
いつもチャリでウブドを走っていてその当時チャリにのっているのはとても珍しかったです。
バリ人と結婚したと聞きましたが、その何年か後に日本のバリ関係のイベントで偶然の再会があるのでした。

このようにバリを学ぶ期間が3年半あり旦那様とは結婚に至ります。
まだまだいろいろなエピソードがありますがまたそれは綴ってまいります。。。
このブログを書いていて旦那様もそうですが、バリが本当に大好きなのだと実感しています。

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