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【ショートストーリー】14    名もない木

 柔らかな風が渦をつくると、枝葉が踊った。優しい風だった。ゆりかごを揺らして、君は笑っていたっけ。僕はそんな君に風のリズムに合わせて子守唄を奏でた。母親はこの世で一番尊いものを抱きあげると僕の腕に優しく導き、君ははじめて自分とは違う世界の何者かに驚き気がつき、また母親の胸に顔をうずめた。僕は君を怖がらせないように、また子守唄の続きのリズムを考える。

 君のファーストシューズは赤色だったね。みどりの絨毯のような芝生が揺れると、光が変わって、僕は転んでしまいそうな君に届きそうで届かない手をのばして焦れったい気持ちになったよ。父親は君の小さな手を割れやすい硝子細工でも扱うように慎重に、でも決して離さないように握っていたっけ。薄橙色の頬が段々さくらんぼみたいに赤らんでいったね。君は僕に触れると何か呟き笑っていたんだよ。

 はじめて君が一人できた時のことを僕は忘れないだろう。友だちとケンカでもしたのかな。それともお家で怒られちゃったのかな。詮索は好きでないけど君の悲しい顔を見たら心がざわざわと騒いだよ。どんな嵐の前の湿った風より君のため息の方が何倍も心配だった。君は僕にそっと触れると何か呟き、次の瞬間力強く駆け出して行った。誇らしくも寂しくもあった心地を秋の風がつんと僕の感覚とともにくすぐったんだ。

 君がはじめて好きな人を連れてきたのは、光と闇を分けた筋状の雲がオレンジ色に輝いた時だった。君にとって大切な人だってすぐに分かったよ。何でかって。白い素敵な服は、何かの特別かな。カシャカシャと人の作り出す規則的な音と光のなかで、君は大切な人に触れると額を寄せて唇を重ねた。君が幸せそうで幸せそうで、僕は嬉しくて嬉しくて、いつか君に聞かせた子守唄を奏でようとしたけれど、うまくいかなかった。おかしいな。何だか、はじめての気持ちだ。おかしいな。夕闇が迫って来ていたからかな。

 あれからどのくらいの季節が巡ったんだろう。

 君は何だか変わらない様子だったかな。年老いた老齢の婦人に寄り添いながら、僕を見上げた。君ははじめて僕を見るみたいに興味深かそうに、慎重に僕に触れたね。この時は僕もまた君とはじめて出会ったような気がしたよ。そしたら老婦人が何か呟いた。しわくちゃな手で僕に触れたその感覚。老婦人はあの子守唄を口ずさんだ。柔らかな旋律は僕の心を捉えて離さなかった。そして、気がついたらからだいっぱいに二人を僕は包んでいたっけ。春の風が花の香りを運び、小鳥が木々を揺らす。老婦人が優しく僕を呼んだ。僕の名前を呼んだんだ。

ありがとう名前をくれて。
ありがとういつも側に来てくれて。
 

おしまい

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