【連載小説】純文学を書いてみた2-4
人をスキになるってステキですよね。
「僕」はスキになるんでしょうか?
前回……https://note.com/sev0504t/n/n3a3099bb31ce
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それは野球のように見えた。
でも、多くが普通の野球と違う。まず音が、歓声がない。ボールをピッチャーが転がし、バッターが今まさに打とうとしていた。
ボールはどうだろう。
ハンドボールくらいはあるだろうか。ピッチャーもバッターもアイマスクをしているようだった。アイマスクというには異様なほど頑丈で、黒い水中マスクのようなものだ。
伸脚を深くしたように身をかがめたバッターは見事にボールを捉えた。ショート方向に転がったボールはアイマスクをつけていないショートと思われる選手が両手でキャッチをし、流れるような動きで一瞬のうちにファーストへ送球した。
「ナイス、ショー」
すべてのプレーがいったん終了し、指導者と思われる人物が大きな声を出した。グランドにいる5人の選手たちは同じ言葉を続けた。アイマスクをつけたのは今しがた打席に入ったバッターとピッチャーだけだ。
僕がすぐに大まかなルールを想像することはたやすかったが、まずはこの奇妙なバージンロードから花嫁を差し出しすことが先決だった。
「みんなやってますねー」
彼女が呟く。
彼女にはこの練習の光景がわかるのだろうか。
「お、受験生、勉強サボっておデートかぁ?」
「監督、からかわないでくださいよ、そんななんじゃないです。この人は大事なお客さんなの。先生こそ大会近いんでしょ?」
僕はとりあえず軽くお辞儀をして父親の名前を出した。まったく彼女は僕の腕を離そうとしない。
「へー、こんな大きい息子さんいたんだな」
やっぱりここでも父は「先生」らしい。選手の人たちは同じような練習を続けている。ピッチャーは高校生くらいに見えたがセンターにいる生徒はどう見ても40歳以上だ。それでも生徒なのだろう。
「父が尾村さんと話しているんで」
言いかけて、彼女が「ちょっと見てくね」と指導する先生に言って、僕の腕を引っ張った。「見ていく」、その言葉に含まれる違和感を、僕は感じずにはいられなかった。
「ごゆっくり」
その先生は微笑んでまた選手たちに鋭い視線を向けた。
「ねえ、ベンチがあるのわかる?」
「先生なんでしょ?あの人」
「そうよ監督、生物の先生。それよりベンチわかる?多分こっちのほうなんだけど・国旗を揚げるポールの近く」
彼女が僕の腕を押していく先には確かに三本のポールとその右側にベンチがあった。
「君、すごいね」
「当たり前でしょ、六年もこの学校にいるんだから覚えるわよ」
僕は彼女の手首を握りベンチの背を握らせた。
「上手ね」
「え、何が?」
「エスコートよ。あなたお父さんのガイドよくしてるんじゃないの?」
「いや、初めてだよこういうの」
「まさか、うそでしょ?」
サングラスが揺れた。
真上を見ると桜木が初秋にしては角度のある日差しをうまい具合にさえぎり、風に揺れるたびに光がきらきらと赤いベンチを照らした。
僕たちはとりあえず隣同士に座った。あまりの突然な出会い。僕は新しい今日という日のすべてを自分の身に着床させようと一息ついた。
不思議なことに今まで生きてきた世界との異質さは既視感を持って妙に僕を納得させた。それもそのはずだ。父はこの学校の卒業生なのだから。
眼をつぶって音だけを聞いた。バットがボールを捉える音、選手たちの掛け声、ピッチャーが投げるときにキャッチャーが手をたたく音、明らかに夏とは違う少しの冷気をもった風の音。そのすべてはちぐはぐな時間差で僕の耳に届き、聞きなれないパーカッションのようだった。
それでもその音色一つ一つは心地よかった。そしてそれぞれが意味を持って僕の鼓膜を揺らしはじめた。
「ねえ、野球の練習の様子教えてよ」
「五人います」
「それで?」
「打ちました。捕りました。投げました。」
「ちょっと、それじゃまったくわからないわ」
少しむっとしたけれど、言葉のみで映像を伝えることの難しさに自分が一番驚いた。まあいいわと彼女はベンチに深く腰を落ち着けた。
「聞いていい?」
僕は彼女のほうを見て言った。彼女は眼をつぶってあらゆる神経を集中させているようだった。視覚以外のすべてを使って彼女は野球の様子を知ろうとしているようだった。
ホームベースまでは十メートルほどあるが、もしかしてこの人ならそれが可能なんじゃないかとすら考えた。
「いいわよ」
眼をつぶったまま彼女は少し構えて言った。
「眼、見えないの?」
言った瞬間彼女は大きく笑い出した。
「あなたって、面白いのね。信じらんない。はは」
彼女は息が弾みきちんと声が出ないような様子だ。
「そんなおかしい?」
「いい?私だから笑ってすむけど、人によってはあなたかなり失礼なことになっちゃうから気をつけてね」
呼吸を整え彼女は笑い声から搾り出すように言った。
「でも確かにそうよね。簡単に説明するとね、私は二歳まで見えてたの。うーん。正確に言えばいえば、見えていたらしいわ。だって記憶がないんだから。物心つく頃には見えないのが当たり前になっていたの。でもなんとなく人影というかその人の輪郭はわかるのよ。だれかいるなーみたいな。なんとなく。」
「ふーん」
「現代医学ではわからないそうなの、原因。視神経と錐体細胞に何らかの異常があるらしいんだけれど、それ以上はわからないのよ。意外に多いのよ、目の不自由な人って原因不明なヒトが。でも時々夢を見るの、形なんてわからないけれど明るくなったり暗くなったりしながら五角形の積み木のような手触りを持った夢。多分あなたに説明してもわからないと思うわ」
圧倒させられるほどの勢いで彼女は語った。
「うちの親父は網膜がどうのっていったかな?」
ふふっとまた彼女は笑った。
「知ってるわよ。外傷性白内障と網膜剥離。」
「なんで」と言いかけると同時に、彼女は言葉を続けた。
「一二歳で事故にあい片目の視力を失う。それから年々視力が低下し一四歳でこの盲学校に入学。今年五二歳。何で私のほうがあなたより詳しいのよ」
僕はつたない実況中継を繰り返しながらもうひとつ質問をした。
「名前はなんていうの?」
「ナイス、ピッチ」
グランドからは気合の入った時間差の声が僕らの周りの空気を震わせたようだった。
「教えてあげない」
予期せぬ答えに僕は思わず大きく乾いた空気を飲み込んだ。
ピッチャーはアイマスクをはずし、水道の蛇口から勢いよく出る水をがぶ飲みしている。眼が完全に見えないのはさっきバットに当てたバッターの生徒だけのようだ。
「君も十分面白いよ」
それじゃあと彼女に言って、父と尾村さんの話をしている部屋に戻ろうとした。一歩踏み出したとき自然と尋ねた。
「正面玄関まで連れて行こうか?」
白杖を両手で大事そうに抱えた彼女に聞いてみた。
「ありがとう、でもいいわ。私なら大丈夫だから、先生によろしくね」
「う、うん、じゃあ…」
つづく
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