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【連載小説】純文学を書いてみた1-1

初めての作品。じっくり育てていきたいです。よろしくお願いいたします。

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 僕がまだ小さくて言葉も記憶も曖昧なときに、母はカール・ブッセの詩を書いてトイレの壁に貼った。

山のあなたの空遠く
 「幸い」住むと人のいう
 ああ、われ人と尋ねとめゆきて、
 涙さしぐみ、かへりきぬ。
 山のあなたになほ遠く
 「幸い」住むと人のいう

 喪失感はゼロではない。失った事実があるという新しい前提を僕に与えてくれるはずだった。全身で得た記憶も見定められたかに思えた存在も、何もないという事実が宙に浮き、ひとつの現実を映しだす。

 この二十数年、得ることが僕を形作ってきたのではなく失うことで形作られた僕がいた。でもそれは何者かが心の奥底の鏡の中で嘲笑しているような、あるはずもない真理があたかもひとつの理想として映し出したものを、僕はただ見ていただけなのかもしれない。それは子供の不安定な影絵そのものだ。虚像ではなかった。偽像とでもいおうか、自分の立ち位置はかくも定まらないものか。

 僕は内的な衝動が具現されることを願った。でも、無理な話らしかった。何もないのだ。やはり僕はどこかに大切な何かを置き忘れていたのかもしれない。

 平成二〇年、最後の蝉が鳴くころ、母は簡単に息をひきとった。

 不思議なことに僕にとっては母の死因なんてものはなんの意味も持たなかった。雑踏のなかで踏み潰された名もないような虫や、山道で車にはねられたであろう道路上の狸のように、死という事実だけが不思議と静かに、何の感興もなく僕の頭の中をめぐっている気がした。

 子供の頃、帰りの遅い母は朝から夕食を用意して、夜の九時までは帰ってこなかった。まだ五歳かそこらの僕は、車のヘッドライトの明かりが壁際に照らしたときに、やっと全身の力が抜け、そこから深い眠りにつく準備ができた。それは安堵とかそういう類のものではなく、自分の母親を確認するすべを忘れてしまわないよう生物学的な動機とでもいうような無意識の行動だったのかもしれない。
 
 今でもふとした瞬間に夢のような記憶なのか、記憶のような夢なのか、それでも妙にリアルな思い出がそこに突如現れることがある。

 ミキは絵を描くのが上手だった。仲間はずれはいやだと言って二十四色のクレパスをすべて使って描いた。「カラスのパン屋さん」をミキが描くと、背景は二十四色が混ざり合い、夕焼けとも青空とも取れない混ざった均整の取れないマーブル模様になる。僕は眼が回りそうになった。でも、時間が経つとまた見てしまうような不思議な魅力をその絵は持っていた。もちろんまた眼が回りそうになった。

 ミキと僕は居残り組だった。
「みんな早くむかえが来ちゃってかわいそうだよね」
「ほんとうだよな。おそくなればおやつの残りとかテレビとかが自由に見れるのにな」

夕刻すぎに日は陰り、どこからともなくカラスや虫の音が交互に聞こえてくると、僕らは自由を満喫した。僕はほかの子たちがかわいそうだという気持ちはなかったけれど、その特異な夕暮れを楽しんだし、運命を共にするような感覚で、いつも同じような面々で、「おむかえ」が来るのを待っていた。

 影と光を分けていた景色が静かに暗闇に包まれようとするとき、決まって僕らは少しの恐怖と寂しさを虚栄という子供じみた感情で何とか打ち消し、自分たちが選ばれた存在であるかのように自分を慰めた。
「ねえ、かくれんぼしようか?」
「えー、またぁ?」
「テレビもニュース番組ばかりだしやろうよ」
 そうやって、自分たちの今を判然とできなくなりそうなとき声をかけてくれるのは女の子だった。僕がこの保育園での唯一の救いは、ここに残る最後の一人にはならないことだった。ミキは僕のうちの2軒隣に住んでいて、いつもミキのお母さんが僕らを連れて帰った。最後の一人にはならなくともたいていの場合、僕らは残りのおやつをふたりで食べていた。子供ながらに運命を共にするような根拠のない予感があった。そして、いつもよくわからないことをしゃべりかけては、「やっぱりだめね」と自分を子ども扱いするミキに反発と憧憬の入り混じった不思議な気持ちをきっと僕はこのころから抱いていたのだろう。それはミキに対してなのかそれとも女の子に対してなのかよくわからなかった。ミキは田んぼで遊んでいると、捨ててあった週刊誌から女の裸の写真を拾ってもってきては僕に見せた。渡した後「キャー」と大げさに叫んで少し肩幅の広い背中をみせて駆けていく。

「じゃあ、隠れる場所はこの部屋からとなりの部屋までだからね」

 いつも船頭はミキだった。僕の手をグッと強く握り引っ張られるようにミキと押入れに隠れ息を潜めた。鮮やかであろう彼女の服は薄い墨汁を空間にばら撒いたように黒く見え、押入れの広さも、あるのであろういくつかの折り重なった布団や毛布さえも、薄暗い空間の中ですべての色に溶け込んで静かさを強調させていた。不意に自分の頬に何か得体の知れないものが触れた気がして肩をすぼめた。

「ねえ」

 吐息のような可能な限りの小さな声が耳元で聞こえた。次の瞬間、生ぬるいぬめりをもった生き物が一瞬頬にふれ、また唇に触れた。二人の体重のかかる二、三枚の布団の上にある毛布が体をくすぐったような気がした。ぼんやりと暗闇からヒトの形が浮かび上がってくるとはっきりと、そんなことは不可能であるはずなのに、僕は確かにミキと眼をじっと見つめあっていた。古い契約でも交わしたように、その沈黙は守られ、僕は言葉を失った。

「ここじゃない?きっとこの中だよ」
 一気に押入れのふすまが開いていつもの居残り連中と先生がしたり顔で僕たちを覗き込んでいた。
「いつもここばかり隠れるからすぐわかっちゃうよ」
「だってミキが」
 やっと言葉が出せた小さな喜びを僕は感じた。
「あ、私のせいにするんだ。じゃあ今度から自分で隠れる場所探せばいいじゃない」
 なんだかひどく自分だけ損をしたような気分になったけれど、その感覚が暗闇の不思議さを打ち消して今を納得させていた。


 その日も最後は僕とミキしか残らなかった。完全に日は落ち、何かの虫が絶えず同じような音を同じようなリズムで鳴らしている。先生たちの雑談が奥の休憩室から聞こえる。二人で暗闇に現れるであろう2つのライトを待った。どんな気持ちで待ったかなんてわからない。ただあの暗闇のミキの眼が恐ろしいくらい澄んでいてまっすぐだったことを思い返す。あの暗闇にあって眼球の白と黒の境界線がはっきりと見え、大きなミキの眼は思わず見とれてしまうほど美しかった。

「眼は黒い色をしているんでしょ?」
 優しい声だった。
僕らは広い幾重にも真っ白なシーツのひかれたベッドに横になって向かい合っていた。空気清浄機のにおい。液晶テレビが絶え間なく音楽チャンネルを流し続ける。
「ああ、光を一番吸収する色で、最も濃い色で、高級感が出る色。あなたが好きな色だろ?」
「眼の黒い丸の外側は白いんでしょ?」
「そう・・・一番光を吸収しない色。黒の反対。もっとも清潔感がある色」
「あなたは何色が好きなの?」
「好きな色なんてないよ。ていうか考えたえ
たこともない」
彼女は口元を緩め、ちいさく笑った。
「おかしなものね、あなたはわかるのに」

つづく

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