夏草の夢の跡

わたしにとって夏といえば、田舎の祖父母の家での思い出が大きい。

祖父が60年も前に建てた家だったが、祖父亡き後、高齢の祖母のため内装や建具を改築したので、今は新しい家のようだ。

バリアフリーで整然とした明るい家は、生活しやすくなったとは思うが、それが良い事だったのかどうかは、未だにわからない。

その後、祖母も亡くなってしまったので、今となっては祖母がどう思っていたのか聞く術もない。

ひやりとした黒光りする木の床や、薄暗い廊下の奥に潜む年季の入った闇は、跡形もなく消えてしまった。

何十年も前から棚に積みっぱなしの、昭和の香りのする石鹸の箱や、古い電化製品の箱。そこに積もった年季の入ったほこり。家の随所にあった年月の重みも、跡形もなく消えた。

祖母が最後まで変えたくないと言って抵抗していた台所も改装した。

祖母の台所は、正面の窓辺には家族の色あせた写真が置かれ、使いかけの薬味などが雑然と置かれていた。右側の窓辺にはガスの炊飯器と保温釜があって、左側のストック棚にはいつも山ほどのタッパーやラップが突っ込んであった。

老朽化して歩くとみしみし音を立てる床。紅白のギンガムチェックのテーブルクロスがかかった食卓テーブルに椅子が4つ。

食器棚には、昭和の花柄の古いコップの数々。わたしたち孫が子供の頃に使っていた子供用の飯茶碗と汁椀と短い箸も、わたしたちが成人してもそのまま置かれていた。

食器棚の横には古い黒板があって、黒板の下には祖母の前かけが引っ掛けてあった。

黒板には常にヨーグルトアイスの分量が書かれたままになっていた。ヨーグルトアイスは祖母のお得意で、プレーンヨーグルトと牛乳と砂糖で作る。いつもだいたいこれが冷凍庫に作ってあって、孫たちの定番のおやつだった。


わたしはこの台所で祖母が料理してくれるのが大好きで、祖母の料理するのをいつも見ていた。

かぼちゃの煮物。ふきのとうや玉ねぎ、ごぼうやにんじん、さつまいも、かぼちゃのてんぷら。ガス釜でごはんを炊き、保温釜に移し替える。菜っ葉のお味噌汁。お昼には、たっぷりのみょうがと大葉とねぎとともに食べるお蕎麦やおそうめん。

どれもシンプルで簡単なものだが、長年やり慣れてきた祖母の、手元の確かさが心強かった。

朝には必ず味噌汁を拵える。泊まりに行くと、朝寝坊のわたしがようやく起きるともう味噌汁の香りが漂っていて、祖母が「顔洗ってきな」と笑顔で言う。

顔を洗っている間に、温め直してくれた味噌汁と白いごはんが食卓に並べられ、朝の光に湯気が光って見えた。

味噌汁の具は葉物が多かったが、ジャガイモがいいとリクエストしておくと、ほろっと崩れるジャガイモに玉ねぎとわかめの味噌汁を作ってくれていた。

塩引き鮭、納豆。数種類の漬物と、甘い煮豆。ぱりっとした美味しいのり。祖母が漬けたしょっぱくて美味しい梅干し。

青白くぴかぴか光る美味しいご飯。黄緑色が美しい、舌にあまい緑茶。

特に、庭で飼っていた烏骨鶏の産みたて玉子に、お醤油をちょっとたらした玉子かけごはんの美味しさは忘れられない。わたしは烏骨鶏を知らなかったので、ずっとにわとりの玉子だと思っていた。家飼いだから玉子が赤っぽくて小さめで味が濃いのだと思っていたが、実はにわとりではなく烏骨鶏だった。

わたしが持つ豊かな食卓のイメージの原点は、今もここにある。


庭も様変わりした。

かつて植物園かジャングルのようだった活き活きとした庭は、植物の世話をこよなく愛した祖父が他界すると、誰も世話しきれなくなって、大きな木はほとんど切ってしまった。今は広く庭の向こうの方まで見渡せる。

かつて物置きと呼んでいた大きな納屋があった場所には、いまは露地も庵も麗々しく、おばの新しく建てた茶室が佇んでいる。

昔、この家の庭は、わたしたち孫たちの格好の遊び場だった。広くて色々な植物があって鬱蒼とした庭。家や物置の陰もあるので4人で隠れんぼもできた。

木や草や花は、百種類よりもっとあっただろうか。庭いじりが大好きだった祖父が丹精込めて世話していた。

それから、にわとりや孔雀、烏骨鶏、金魚などの動物も飼っていた。

鯉と見まごうばかりに大きくなった金魚は、祖父がエサをやる時間になると口をぱくぱくさせて水面近くに浮いてきて、嬉しそうに祖父とコミュニケーションするのだった。

庭には、柿の木、金柑の木、蜜柑の木、葡萄棚もあった。柿の木に生った渋柿は縁側の軒に吊るして干し柿に。金柑の木には実を狙ってピースやカケスがやって来た。

夏にはみょうがと大葉とふき、春先にはふきのとうが芽吹いて取り放題だった。畑では、きゅうり、なす、トマトを作っていた。とうもろこしや獅子唐も作っていた。

物置と呼んでいた納屋は、卓球台とか2メートルもある年代物のレコードプレーヤーとか、臼と杵、餅搗き機、母たちが子どもの頃に使っていた机と椅子など、年代物の品で溢れ、わたしはそこに入るのが大好きだった。

物置の中には、梅干しを干す巨大なざるがずらりと並んでいた。日中は外に出して天日に干し、日が暮れると物置の中にざるごと仕舞った。

ちなみに、冬休みの物置にはだいたいいつも、梁から大きな塩引き鮭がぶら下がっていた。紅鮭の半身削られたのが吊るされている様子は、高橋由一の「鮭」の絵画さながらに禍々しい紅色で、半身にされた鮭の怨念を感じた。床には大きな白菜漬けと沢庵漬けの桶があって、冬じゅう祖母の美味しい漬物を食べられるのだった。


物置に面したはす向かいには、離れが建っており、そこにはおばあさんが住んでいた。

おばあさんというのはわたしたちの曾祖母で、その頃すでに90才を過ぎていたと思う。だいぶ前から痴呆の症状がでており、祖母が長く介護を続けていた。

印象に残っているシーンがある。ある晴れた夏の日の昼間、私たち子ども4人は、玄関脇の竜の髭の実を剥いてパールに見立てたものを集めたり、朝顔で色水を作って遊んでいた。

黄色の色水を作るために食用菊を取りに行くと、菊の畝に面した離れの縁ごしに、おばあさんが珍しく起きているのが見えた。

おばあさんを見かけることは珍しいので、4人して離れの縁側まで行って、一番年上でしっかりものの従姉がおばあさんに声をかけた。

おばあさん、わたしたち、ひ孫ですよ。わかりますか?

おばあさんにはわからなかったようだった。

おばあさんの家は、母屋とは違う、乾いて何か甘ったるいような匂いがした。

私たち4人は仕方がないので、菊の花を幾つか摘むと、色水遊びの続きに戻った。


お盆の夕方には、庭の一隅で苧がらを焚いて、庭でとれたきゅうりとなすと割り箸で馬と牛を作った。

日が沈んだ頃、火を入れた大きなちょうちんをぶら提げて、15分ほどの場所にある墓所までみんなで歩いて行き、祖先の墓に線香を供え、手を合わせた。

この墓所には樹齢400年にもなる大きな木が立っていた。今は切り倒してしまい、直径2メートルもある大きな切り株だけが残っている。

     ***

ひとつひとつのものは、ただのそのものでしかないが、人間がものを集めると、そこには場の気配が生まれる。

雑然とした気配には、意図しては作り出せない価値がある。

その成し手が年月であるなら、ことさらに。


しかし、わたしたちは生きていかなければならない。

生きることは変わり続けることで、どんなに美しく魅力的な気配でも、いつかは手放さなければならない。

だから、思い出や物語、文章というものは、わたしたちの心に美しい影を投げかけるのだと思う。


「夏草や つはものどもが 夢の跡」

年月が経ち草木はすっかり生え変わり、金魚が何百回、何千回も代がわりするくらいの時間が経っても、芭蕉の句はわたしたちの心に物思いを呼び起こす。

わたしたちが感じたノスタルジーを書き記しておくことは、だから、無駄なことではないと思うのだ。

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