【小説】春のはじまり
「ほなきん、またな!」(※)
「またなぁー」
小学校からの帰り道。
お友だちのさりなちゃんと別れると、絵里(えり)は、家に向かう坂道を歩き始めました。
ピンク色のしだれ桜、
梅の白い花、
元気いっぱいの菜の花……
道沿いにあるお家(うち)の庭や畑では、はじまったばかりの春が、弾けるようです。
もっとも、今日の絵里の注目ポイントは、そんな、かわいいお花さんたちではありません。
坂道の周りには、たくさんのビワの木が生えています。
お陽さまが、その緑の葉を、やさしく照らしています。
絵里は、そんな葉をじいっと見ると、
「すうーっ」
と、ちっちゃな体で精いっぱい、息を吸い込みました。
そして、顔を近づけると、
「ふーっ」
と、力いっぱい、息をふきかけたのです。
絵里は今日、学校で、よしこ先生から「光合成」について教わったところでした。
なんでも植物というのは、人間の吐く二酸化炭素と、水、そしてお陽さまの光をもらって、栄養と酸素をつくりだすというのです。
6月になると、ビワの木々は、まあるい、輝くようなオレンジ色の実をつけます。
食いしん坊の絵里は、その甘いビワの実が大好きなのでした。
そして、そんなおいしいものができるのに、絵里もすこし貢献しているというのです。
ビワの葉には、いろんな個性のものがいます。
冬を越えて、少しシミをつけたビワの葉は、まるで、やさしいおじいちゃんのよう。
いっぽうで、緑が輝くような新葉は、元気いっぱいの若者のようです。
絵里は、おじいちゃんの葉っぱには、熱いスープを冷ますように、
「ふうぅぅー」
と、やさしく息を吹きかけました。
すると、おじいちゃんの葉は、ゆらゆら、しずかに揺れました。
いっぽうで、若者の葉には、顔を真っ赤にしながら、
「ふー!」
と、力いっぱい息をぶつけました。
すると、若者の葉は、ぶるるる、と勢いよく揺れました。
おじいちゃんの葉も、若者の葉も、なんだか絵里に向かって、うなづいているようです。
「ひゃー!」
絵里は、自分が、ビワの葉っぱたちとお友だちになった気がして、嬉しさでポンポン飛びはねました。
こんなにがんばって二酸化炭素を贈ったんだから、きっと今年のビワは、すごくおいしくなるに違いありませんね!
それからまた、絵里は家へ歩きだしました。
しばらく坂道を登ると、少し大きなスペースに、小さなお地蔵さんが置かれています。
ここで、絵里はピタッと止まり、
「くるん!」
バレリーナのように格好をつけて、後ろを振り向きました。
すると、絵里の眼のまえに、やさしい青さをたたえた、海が広がりました。
ここは、この地域の見晴らしスポットなのです。
お地蔵さんのそばには、木のベンチがあります。
これは、地域のおじいちゃんたちが、ここで美しい景色を楽しめるよう、作ったものなのでした。
そして今日、ここは、絵里の特等席です。
絵里は、ベンチにちょこんと座り、空と、海を眺めました。
瀬戸内海は、毎日、その表情を変えます。
そして、今日の瀬戸内海は、まるで天使のベールをまとったような美しさでした!
水平線ぎわには、小さな島が見えます。
(あの島の近くでは、うどんの出汁のもとになるお魚さん(※)が採れるって、ママがいうとったな・・・)
また、絵里の食いしん坊!
もっとも、このときは、うどんのイメージはすぐに去っていきました。
なぜなら、島はちょうど、太陽の光がさしこめて、天国のように輝いていたからです。
しずかに波立つ海、
青空に薄くかかる雲、
海をゆっくり進む、ちいさな船、
風にのって飛ぶ鳥・・・・
そんなものを見ているうちに、絵里はだんだん、自分も空や海へ溶け出していって、この世界いっぱいに広がっていくような、不思議な感覚になるのでした。
ほわわん、としたまま、絵里は、また家路をたどり始めました。
実は、家に帰るまえに、もうひとつ、いきたい場所があったのです。
見晴らしスポットからもう少し坂を登ったところには、小さな神社がありました。
ここは秋、子どもたちが大人たちと一緒に、獅子舞を行う場所です。
絵里も去年、太鼓を叩く係をやりました。
そのときは、仲良しの光太兄が、獅子の布を被って、舞を披露したのでした。
また、絵里はときどき、さりなちゃんや健人くんなどと、ここで一緒に遊ぶのでした。
じつは、この神社には、絵里のお気に入りの場所があるのです。
神社の奥は、小さな林になっています。
ここは晴れた日、やさしい木漏れ日が降り注いで、それはもう、時が止まっているような美しさなのでした。
絵里はときどき、ひとりでここに来ては、木に抱きついたり、落ち葉に隠れているドングリを拾ったりしているのでした。
そう、こんな気持ちのいい春の日は、この”聖地”にお参りをしなければなりません!
神社の林は、今日も、すてきな静けさがただよってました。
絵里は、木のねっこを枕にし、落ち葉でやわらかくなった地面に、ころんと寝転びました。
あちこちから、鳥の鳴き声がしてきます。
やさしい風に木々が揺れて、
「ざー」
と鳴っています。
その音を聞いていると、絵里は、宇宙に吸い込まれそうな、果てしない気持ちになるのでした。
(この世界はな、いろんなものや人がつながって、できてるんや・・・)
しばらく目を閉じていると、絵里の心に、お母さんの言葉が浮かび上がってきました。
絵里のお母さんの真里(まり)には、不思議な力がありました。
「ママはな、魔法使いなんやで」
ときどき、真里は、冗談のようにそう言いました。
もっとも、アニメに出てくるような、空を飛んだり、悪い人を倒したり、そんな力ではありません。
なんでも、水や風の気持ちを少し理解できる。そういうものらしいのです。
幼い絵里には、お母さんのいう魔法というのは一体どういうものなのか、よくわかりませんでした。
しかし、お母さんが魔法の話をするときは大抵、お布団の中で、そしてその口調も、こもり唄のような、やさしい讃岐弁なのです。
だから、絵里はいつも、夢見心地のときに、この言葉を思い出すのでした。
陽だまりに寝ころび、夢の世界をただよいながら、絵里のこころは、八識(※)を深く降りていくようでした。
そのときです。
はるか奥から、なにか、鼓動のようなものが聴こえてきました。
どっくどっくどっく。
どっくどっくどっくどっく。
ふかい海の底から浮きあがってきたように、絵里の意識は、その鼓動を、だんだんと感じ始めました。
それは、大地の底、地球のとても深いところから響いてきているようでした。
そして、絵里の小さな心臓と、一緒にリズムを刻んでいるようでした。
いや、むしろ絵里の心臓が、その何かと、一緒にリズムを刻んでいるのかもしれません。
絵里はしばらく、その鼓動を感じながら、大地に身を預けていました。
そのとき、
「あっ!」
絵里は、思わず声を上げました。
「世界はいろんなものがつながっている」
ということが、急にわかった気がしたのです。
絵里と、ママだけじゃない。
ビワの木だけでもない。
もしかしたら、人間とこの地球も、つながっているのかもしれへん。
「人間と地球がつながっている」
というのは、学校の教科書には載っていません。
お母さんが買ってくれた本の中にも書いていません。
また、絵里の好きなアニメでも、そんなことを言うキャラはいませんでした。
でも、絵里は、そのちっちゃな存在のすべてで、それが正しいことのように感じたのです。
そして、
(あたしは、世界を変えるような、すごい真理を発見をしてしまったのかもしれん!)
そう思いました。
さあ、こうなると、じっとしていられません。
大好きなよしこ先生に伝えたら、花まるをもらえるかもしれません。
健人くんがよくいう、「のーべる賞」というのも、もらえてしまうかもしれません。
でも、なにより、
(早くママに知らせなあかん!)
絵里は、ガバっと起き上がると、ピューッと駆け出しました。
※
真里は、家でパソコンとにらめっこしていました。
真里は、これから開業したいと思っているカフェの事業計画書を書いている真っ最中です。
「銀行から融資を受けないで、自己資金で小さく初めてもいいと思うよ」
「でも、今の段階じゃ、まだ真里ちゃんが本当にやりたいことや、事業性が、ちゃんと突き詰められてないんじゃないかな」
お世話になっている若社長の金田さんの、そんなアドバイスを踏まえ、真里はあれこれ考えていました。
でも、絵里がぶじに大きくなり、大学に行ったりするまでの費用をまかなうくらいの収入、となると
「むむむ」
家計簿をみながら、思わずうなってしまうのでした。
なにしろ、さいきんは戦争でガソリンや食料品が値上がりしたり、少子高齢化で税金が上がったりしてますからね。
子育ても、ほんとうに考えることがいっぱいあるのです。
そのとき、「パタパタ」と、玄関のほうから音がしました。
(わが家の小さな怪獣さんが帰ってきたな)
真里は、ささっとデータを保存すると、パソコンをパタンと閉じ、一度、深呼吸をしました。
すると、絵里が居間に飛び込んできて、
「ママ、ママ、あたし今日、すっごい発見したんやで!」
と、興奮した声で言いました。
おやおや、この子は。
昨日はヒーローもののアニメを見て、
「怪獣さんがかわいそうやから、あたしも怪獣さんになるんや」
などと言っていたのに、今日は「小さな科学者さん」に早変わりのようだな。
真里は、そんなことを思いながら、
「まあ、よかったわね」
とニッコリ笑いました。
そして、
「でも、その前に、手洗いとうがいをしてらっしゃい」
と言いました。
「はーい」
絵里は元気な声で答えましたが、ニヤっと笑うと、そのまま真里のほうに突進してきて、
「たっちー!」
と、足元に抱きつきました。
「こぉらー」
真里は苦笑しました。
夕暮れはじめた空の下、瀬戸内の小さな家からは、母子のじゃれあう声が響いてきます。
庭さきでは、サヌカイト(※)の風鈴が、春の風を受けて、やさしい音色を奏でていました。
(終)
本作品は、石牟礼道子の小説『あやとりの記』をオマージュしたフィクションです。実在の地域や人物・団体とは一切関係ありません。
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