【小説】ある男の九相観
男は、泣きながら生まれてきた。
誰かを求めるように、大声で泣きながら、母の胎から生まれてきた。
「この子が、健やかに産まれてきますように」。
母は妊娠中、野菜やお肉、体に良い物を、なるべく食べるようにした。
少しでも、お腹の子に栄養を贈ろうと。
元気な子に育て、と祈りを込めて。
つまり男は、親の愛と、さまざまな動物・植物の命をもらって、この宇宙で、人としての形を成したのである。
※
男は、夜泣きがひどかった。
父や母は、夜中に何度も起こされ、疲れた体で彼を抱っこした。
人見知りも激しかったので、初めての場所に行くと、
「ここ、いやぁだ」
と泣きべそをかいて、母の足もとに隠れてしまうのだった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
そんな子を、母と父はやさしく、辛抱強く育てた。
その甲斐あってか、小学校にあがるころには、男も友だちがつくれるようになった。
公園に行くと、他の子どもたちとジャングルジムを駆け回って、
「たっくん、もうご飯だよ!」
と母が呼んでも、
「もっと遊んでいくの!」
笑いながら、そう答えるのだった。
そんな彼を、夕陽が、やさしく照らしていた。
※
その後、中学校に進学したときのこと。
男は、初めての中間テストで、学年5位になった。
「おい、お前は何位だったんだよ」
クラスメートたちは、互いの成績を見せあって、大騒ぎしていた。
それを横目で見ながら、男は、
(自分は、この社会で、上位の人間なんだ)
そう感じた。
その後、大学に入ると、男は企業インターンに精を出した。
インターン先では、周りが驚くような営業成績を出し、
「●●くんって、本当にすごいね!」
「うちに入ってくれないのが残念だよ」
と褒められた。
「そんなことないですよ」
男は、謙遜しつつも、
「ぼんやりした連中と違って、俺は、特別な人間なんだ」。
内心、そう思わずにはいられなかった。
※
大学を卒業すると、男は半導体に関わるベンチャー企業に就職した。
周りからは、
「なんで安定している大企業に行かないで、そんな新興企業に行くの?」
と、選択を危ぶむ声もあった。
しかし、その後、生成AI(人工知能)が発展すると、AIに適した半導体の技術を持っていた彼の会社は、急速に大きくなった。
20代のうちから年収が1000万円を越えたとき、
「俺は、時代を見る目をもっていたんだ」
男はそう思った。
彼の同級生には、うつ病で仕事に行けなくなっている人もいた。
ブラック企業で薄給に苦しんだり、勤め先が倒産したりした人もいた。
飲み会や同窓会などで、そんな話を聞くたびに、
「いやあ、○○も大変だね」
と言いつつ、
(あいつらは、人生に失敗したんだ)
そう感じた。
※
順風満帆にみえた男の人生の潮目が変わったのは、30代半ばのことである。
男が36歳のとき、母が亡くなった。
脳梗塞だった。
突然のことで、男は、別れを言う間もなかった。
その翌年、母を追うように父も亡くなった。
彼は夕暮れ、両親がいなくなったマンションの一室にたたずんだ。
そして、わびしい気持ちで、父が愛読していた夏目漱石の本や、母が好きだったシベリウス(※)のピアノ曲のCDコレクションを処分した。
男は、両親が亡くなる前後から、うまく眠れない夜が増えた。
30代後半になれば、たいていの人は、体力が落ちてくる。
男も、例外ではなかった。
そんな男に追い打ちをかけるように、会社の事業環境も、どんどん厳しくなっていった。
その頃、世界のあちこちで、戦争が勃発した。
男の住んでいる国が直接、戦争に巻き込まれたわけではない。
しかし、輸出入が止まったり、海外のプロジェクトが撤退に追い込まれたりと、その影響は、多方面に及んだ。
さらに、深刻化する気候変動も、打撃となった。
AIを含むインターネットやコンピューター技術は、高性能になればなるほど、大量の電力や、冷却用の水を必要とする。
多くの国が干ばつに苦しむ中、大量の水や電力を消費するデータセンターの建設に、反対運動が起こるようになった。
それは、IT関連の産業全体に大きな影響を及ぼしたのである。
男は、
「しっかり仕事をして、金を稼いでいれば、世の中はうまく回る」
無意識のうちに、そんな前提をもっていた。
しかし、社会の変化は、彼の想像を超えていた。
男の会社は、軍事向けAIに関する事業を伸ばすことで、この苦境を乗り切ろうとした。
そんなある日、彼が関わっていたプロジェクトで、政治家への不正献金が発覚した。
男は、政府やメディアへの対応に追われた。
「本当は、あっちにも献金したんじゃないんですか!」
「それじゃ説明になってませんよ!」
「AIで作ったような謝罪文で、心がこもってない!」
記者会見では、メディアから怒号が飛んだ。
男が、不正献金に直接関わったわけではない。
しかし、
「ひょっとしたら、あれも違反になるんじゃないか」
いくつかグレーな、思い当たるふしがあった。
男は、毎晩のように悪夢にうなされ、夜中に目を覚まし、そのまま眠れなくなった。
そのうちに、彼はだんだん、疲れと無力感をおぼえるようになった。
※
こんなとき、30代半ばまでだったら、女性と甘い時間を過ごすことで、慰められたかもしれない。
彼は、容姿もそれなりに整っていたし、お金もあった。女性とそつなく会話することもできた。
そして、これまで複数の女性と付き合った経験もあった。
会社の不祥事がようやく落ち着いた40代のはじめ、男は、結婚を意識するようになった。
しかし、いざ女性たちと、ディナーの席で向き合ったとき。
彼は、何を話せばいいのか分からない自分に気づいた。
仕事がうまく行かず、性欲も、20代や30代に比べ、あきらかに弱くなっている。
そんな自信を失くした中で、女性と、どう関わればいいのか?
彼には分からなかった。
いくつかの挫折を経て、男が最終的に向かったのは、パチンコである。
駅前にあるパチスロ店で、きらびやかな光に照らされながら、玉がくるくる回転したり、人気のアニメソングが流れたりする。
その間だけ、男は、この世の物憂さを忘れていられた。
※
46歳になると、男は、心臓に痛みを感じるようになった。
はっきりとした原因はわからなかったが、酒の飲み過ぎが原因のひとつなのは、間違いなさそうだった。
「お酒の量は、控えたほうがいいですよ」。
医者は注意したが、男は飲むのをやめられなかった。
男は、ぼんやりと、
「俺の人生は、失敗だった」
という、苦い痛みを感じていた。
しかし、ではどうすれば成功したのか。
あるいは、そもそも、何が成功で何が失敗なのか。
分からなかった。
「今の社会は、間違っている」
男は、そうも思った。
しかし、なにがどう間違っているのか。
あるいは、「正しい社会」とはどんな社会なのかも、やっぱり分からないのだった。
※
そして、48歳の、4度めの干支を迎えた記念すべき誕生日。
マンションのバスルームで入浴中、男は心臓発作を起こした。
そして、そのまま死んでしまった。
意識を失うのは一瞬だったので、男が不幸を感じたかはわからない。
ただ、男の脳が電気信号を発しなくなると、「自分」という幻想も消え去ったのだった。
湯船に浮かぶ男の死体を、窓から入る夕陽が、やさしく照らしていた。
※
男の死は、しばらくの間、誰にも気づかれなかった。
男の住んでいたマンションは、プライバシー保護のため、できるだけ住民同士が接触しないよう設計されていた。
そのため、周りで、彼の死に気づく人は誰もいなかった。
また、同僚からは、
「どうせ、いつものサボりだろ」
と思われていた。
男は、このころ、パチンコのため仕事を無断欠勤することが増えていたのである。
しかし、大型連休が過ぎて1週間がたったにも関わらず、電話やSNS、メールにも返信がないとなると、さすがに同僚たちも、異常に気づくようになった。
会社から連絡を受け、マンションの管理人が、様子を見に行くことになった。
男の部屋は、タワーマンションの25階にある。
そのドアの前に立ち、管理人は、何度もインターホンを鳴らしたが、返事はなかった。
「●●さん、いないんですか?」
「開けますよ!」
イライラしながら、合鍵でドアを開けると、
「うっ」
鼻をつんざくような、すさまじい異臭がした。
湯船の中で、男の体はすでに溶け、真っ黒な液体と化していたのである。
この頃、都会では、孤独死はもう珍しくなくなっていた。
とはいいつつ、この管理人がその現場を見るのは初めてだったので、
「うわあぁぁ」
と大声で叫び、大量のハエにたかられながら、あわてて外に飛び出した。
このときに踏みつぶしたウジのサナギの「ぶにゅっ」とした感覚が、あまりにも気持ち悪くて、管理人はその後も、思い出すたびに吐きそうになった。
もっとも、このマンションでは”孤独死保険”に入っていたので、その後の対応はスムーズだった。
警察の現場確認や遺体引き取りの後、すぐに特殊清掃会社の人間が来て、見積もりを行った。
バスルーム周辺はあまりにひどい状態だったので、あちこちを交換しなければならなかった。
また、排水管の中までウジの卵などが入り込み、清掃も、かなりの労力が必要そうだった。
それでも、孤独死保険の掛け金が高額だったこともあり、家の損害は、保険金で十分カバーできるものだった。
なので、原状回復の作業は、すぐに行われることになった。
※
このとき派遣された特殊清掃会社のスタッフは、自らも友人を孤独死で亡くしたことがある、初老の男だった。
彼が男の家に入ると、死体があったバスルーム以外は、かなり整理されていた。
リビングの本棚には、
『ギャンブル依存からの回復』
『40代後半からの人生逆転』
そんな本が、読まれないまま、ほこりを被っていた。
その隣には、武満徹の「弦楽レクイエム」(※)のCDがあった。
母の遺物で、捨てそびれたものらしい。
別室をのぞいてみると、大量のアダルトグッズとともに、彼のかつての恋人の写真や、学生時代のアルバムなどが乱雑に散らばっていた。
その中で、ふと、1枚の写真がスタッフの目にとまった。
小学校のサッカークラブで写したものらしい、古ぼけた写真だった。
そこでは、ユニフォーム姿のまだ幼い男が、チームメートたちと肩を抱き合っている。
希望に満ちた、屈託のない笑顔を浮かべて。
夕暮れの光が差し込む部屋で、スタッフは、それを悲しく見つめた。
そして、息を吐き、ゴミ袋に写真やアダルトグッズなどをまとめていった。
全ての清掃が終わると、彼は合掌し、小さくつぶやいた。
「今まで、ほんとうにお疲れさまでした」。
※
男は、泣きながら生まれてきた。
誰かを求めるように、大声で泣きながら、母の胎から生まれてきた。
そして、成長すると、
「俺は特別な人間なんだ」
「俺は、1人で生きていける強い人間なんだ」
と思うようになった。
しかし、実際には、たくさんの人や植物、動物たちから、命をもらってきたのである。
彼は、他人のつくった道路を歩き、地球から与えられた水を飲み、いろんな人と、生きるためのエネルギーを交換し合ってきた。
そして死んだ後、ウジに食べられ、分解され、この地球に生きるすべての生き物と同じく、宇宙をとりまく物質連関の中に還っていったのだった。
◇◇◇◇◇
目が覚めると、私は、炎王寺の「胎内めぐり」(※)の中にいた。
どうも、夢を見ていたらしい。
私は本日、自治体のDX(※)推進に向けた営業提案で、瀬戸内にあるK県夕凪(ゆうなぎ)市を訪れたのだった。
プレゼンは緊張したが、市長や福祉、総務関係の部長からもお褒めいただき、
「よっしゃ!これで2000万円の案件は、うちのものだ」
と、心の中でガッツポーズした。
さて帰ろうと思っていたところ、若い職員が、
「夕凪市にはいろんな見どころがあるけん、よかったら、観光も楽しんでいってください」
と、パンフレットを渡してきた。
その中を見ると、「炎王寺」というパワースポットが目についた。
帰りの飛行機まで、まだ時間もある。
「うちの会社が無事、受注できますように」
とお参りに行こうと思った。
炎王寺を参拝すると、まだ30代らしい副住職が、本堂の隣りにある岩屋を指し、
「あれは『胎内めぐり』と言って、岩の下にある地下道を歩けるようになっとります」
「中にはお大師様(※)の像があるけん、よければ、その前に少し、座ってみてください」
そのようにおっしゃった。
地下道は、自分の手も見えないほどの暗さだった。
その中を、副住職に教えて頂いたとおり、私は、壁に手を突きながら歩いていった。
深い暗闇を歩いていると、なんだか、別の宇宙をさまよっているような気分になった。
少し歩くと、ロウソクの灯りに照らされた、空海の石仏があった。
その前にある座布団に腰を下ろし、私は空海像を見つめた。
半眼の空海は、どこか、宇宙の深みを凝視しているようだった。
その姿を見ているうちに、疲れが出たのか、眠ってしまったらしい。
※
夢を見たのは、ほんの1〜2分だったようだ。
ロウソクの長さはほとんど変わってなかった。
空海像は再び、そこに鎮座していた。
しかし、その空(くう)を見つめる眼差しは、いっそう深く、激しくなっているようだった。
奇妙な夢だった。
なぜ、自分になんの関わりもない男の一生を、夢に見たのだろう?
訳がわからない。
しかし、夢の後、私は、なにかが変容したような、言いしれない気分になっていた。
ふと、自分の歩いてきたのと別の方向に、かすかな光が見えた。
あれは、出口だろうか。
光に向かって歩きながら、私は、これからの人生を想った。
(終)
本作品は、中国の故事「邯鄲の夢」とレフ・トルストイの小説『イワン・イリイチの死』を翻案したフィクションです。実在の地域や人物・団体とは一切関係ありません。
なお、孤独死については、『事件現場清掃人 死と生を看取る者』(高江洲 敦著、飛鳥新社、2020)ほか資料を参考にしつつ、作者の想像を交えて記述していることをお断りします。
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