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【千文字書評】方丈記 ~人生の”負け組”だと感じる夜に

僕はもう少しで40歳になる。そして、これまでの自分の人生を振り返ってみると、「自分は人生に失敗した」という気分をぬぐい切れない。

今まで何度か女性に恋をしたが、ことごとく上手くいかなかった。

仕事に関しても、自分は中小企業に勤め、それほどの収入があるわけでもない。

若い時は、収入が低いことをあまり苦に感じなかった。しかし、恋愛での失敗を経て、自分が女性に評価されるうえで収入が大事な要素なのだということ痛感するようになった。

もちろん、金がすべてではない。しかし、そのほか、自分の承認欲求が満たされるような社会的な成功も、特になかった。

(こうした自分の惨めさは、現代のSNSによって助長されているのは間違いない。

正直なところ、自分の同級生や、まわりの人間たちが悩みのない人生を歩んでいるかというと、全くそんなことはないと思う。結局、「他人の田んぼは青く見える」ということなのだろう。

しかし、そう思ったところで、自分の惨めな感情はそれほど慰められるわけでもない)

こんな中で、ふと思い出すように手にとったのが、鴨長明『方丈記』だ。

中学校の古典の授業で読んだのが、この随筆に初めて触れた機会だったと思う。その時は、「ゆく川の流れは絶えずして~」という文章だけ読まされて、いわゆる「無常観」についての本だというイメージを持っていた。

しかし、改めて読んでみて印象的だったのは、鴨長明は、自身の個人的な人生の挫折を経て『方丈記』を書いたのだということである。

彼は、歌人として優れた才能をもっていたが、不運が重なり、就きたかった役職に就く機会を何度となく逃してしまったそうだ。

何事につけても、生きていくことが容易ではない世の中で、不安と心配を抱えながらなんとか生きて、三十余年。その間に、さまざまな機会を逃しては、つくづくと自分には運がないのだと、自然に知るようになった。

光文社古典新訳文庫『方丈記』36ページ

こうして世間の名誉や栄華を捨て、出家し小さな家に住むことにした鴨長明は、『方丈記』において、小さい生活の良さをつづっている。

やどかりは、小さな貝を好む。そのほうがよいと知っているのだ。みさごという鳥は荒磯に棲む。それは、人間を恐れるからだ。私もまたそれと同じだ。世間に近く住むことがどういうことか、どうなるか、すでに知っているから、もう何かを望むこともないし、あくせくすることもない。ただ、静かに暮らすことだけを考え、余計な心配のないことそのものを楽しんでいる。

同45ページ

もっとも、だからといって、彼は、完全に欲を捨てきった、聖人というわけでもない。

そもそも、こんな随筆を書いていること自体、都で栄えている人たちへの僻みではないのか。仏の教えにしたがって執着を捨てたつもりでも、いまだ煩悩にとらわれているのではないか。

『方丈記』の末尾は、そういった自分に対して、自分の心は濁りに染まっているのではないか、貧しい暮らしをしてきたせいで心が迷っているのではないか、と問いかける。そして、

「自分の心に問い掛けても、心は何も答えなかった。ただ、舌を動かして、阿弥陀仏の名を二、三度、唱えただけだった」

と締めくくる。

この、わが心に問い掛ける、ということが、この歳でこの本を読んで、いちばん印象に残ったことだった。

僕自身、「自分は人生に失敗した」という思いがあるとはいえ、まだ「いや、そうはいっても、まだやり返せるぞ」とどこか思っているところがある。

30代の終わりというのは、そういう歳なのだろう。

そして、自分はどんな道を歩むのか、僕も、これから何度も心に問い掛け続けることになるのだろう。

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