【千文字書評】男性目線で読む『夏物語』(川上未映子)と、生まれなければよかったという思い
昨晩、『方丈記』の書評において、自分の恋愛の失敗について軽く触れた。
それに関連して思い出したのが、川上未映子『夏物語』である。
川上未映子という作家は、扱うテーマに心惹かれる一方、どうも文体が苦手で、書店で手に取るたびに、散々迷ったあげく書棚に戻してしまう、ということを繰り返してきた。
そんな中、主人公が(当時の自分と同じ)38歳ということに親近感を感じ、ようやくちゃんと読み通せたのが、『夏物語』だった。
読んで、深く深く、心を打たれた。それは、自分が子どものときから抱えてきた思いと、響き合うものだったからだ。
『夏物語』のあらすじ
『夏物語』は、小説家の主人公・夏子が、「自分の子どもに会いたい」という思いを持ち始めたことから始まる。
夏子は子どもを持ちたい一方で、男性とセックスしたいとどうしても思えない。そんな彼女の周りには、
・父の奴隷のような母の姿に嫌悪感を持ちながら、自分も結婚し、結局そんな母親になってしまっていることに絶望している紺野、
・子供を持っている人に対し「自分の勝手で子どもを作っておいて、苦労を愚痴ったりしているなんて、なんて浅はかだ」と思いつつ、子どもを持たない生き方を選んだ仙川、
・「女にとって大事なことを、男とわかりあうことはぜったいにできない」と思いつつ、子どもを愛し、1人で子育てする遊佐、
・自分が精子提供による人工授精(AID)によって生まれてきたことに向き合い続ける逢沢(この人だけ男性)
など、さまざまな人がいて、子どもを持つこと・持たないことの意味が問われ続ける。
誰が間違っているとかではなく、それぞれの人に、その考えの背景になる人生がある。
文庫本で600ページを超える小説だが、「このテーマを、丁寧に大切に扱いたい」という作家の強い想いを感じる厚みだった。
「生まれなければよかった」という思い
この小説については、私見以外の形で書くことができないので、ここからは個人的な話をさせてほしい。
僕は、子どもの時から「生まれてこなければよかった」という思いを抱えていた。
それは、いくつかの理由があるけれど、ひとつは、生きることは、加害者であるという側面が付きまとうからだ。
それは、命をもらって生きている動植物に対して、まず当てはまる(肉を食べるということは、日々、動物に対して暴力をふるっているということである)。
また、世界の中で比較的豊かな日本に生きるということは、資源が有限なこの世界において、貧しい途上国の人たちを踏みにじっている、という面もある。
それと合わせて、僕にとって生々しかったのは、中学生ごろから感じるようになった性欲だ。
男性の性欲とは、人によって形は異なるけれど、多くの場合、暴力的なものを含む。
(男性には、征服欲があり、女性に対して征服的な立場になることで、満たされるという側面がある)
僕は、基本的に異性愛者なので、女性が好きだし、性的欲求も感じる。そして、とりわけ男性は10代から20代の終わりまで性欲が強いこともあり、僕自身、女性がいてくれないことが気が狂いそうなほど寂しく辛かった。
(愛というのは、つまりは「オキシトシン」などのホルモンに関わる感情だが、男性の場合、それに性欲が結びついている側面がある)
その一方で、上記のような、ある種の「加害」「罪」の意識があったため、恋愛に対して、どこか腰が引けてしまっていた。(特に美男なわけでもお金があるわけでもないので、そんな自分がモテないのは当たり前である)。
男として、生まれたくて生まれたわけじゃない。
人間として、生まれたくて生まれたわけじゃない。
(草とか、鳥に生まれてきたかったなあ、とずっと思っていた)
しかし、かといって、死ぬのも苦しいことである(親に申し訳なくもある)。
そして、生きていて、女性から愛されないのも苦しいことである。
「母さん、なぜ僕を生んだんだ」
そんな、問うに問えないような問を、ずっと心の中で抱え続けてきた。
そんな自分からして、『夏物語』は、とにかくクリティカルな内容だった。
間違うことを選ぶ
ただ、今の自分は、それとは少し違う考えや思いも、同時に抱えている。
ひとつは、歳を取って、性欲が弱くなってきたことだ。それは、男として「愛されない苦しみ」が多少なりとも和らいできたということでもある。
また、歳をとると、他人を傷つけることに、多少鈍感になる、つまり厚かましくなれる面もある。
そして、それに加えて、もうひとつの、ある考えも背景にある。それは、『夏物語』のラストとも、多少なりとも響き合うものだ。
『夏物語』の最後、主人公の夏子は
と言って、子どもを産むことを選ぶ。
正しくないこと。間違うこと。
それによって、いやそれがなければ、この世界は成り立たないこと。
20代の終わり、人生に絶望しかかっていたときにヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んで、
「人間社会の次元では間違っていること・愚かなことでも、宇宙的な次元で見たら、正しいことがあるのではないか」
と思ったことがある。
(シッダールタの話は、また別の機会に書きたいのだが)
子どもをつくる、男女がセックスをする、ということは、人間の次元では、暴力がつきまとう。そして、暴力は、人間社会の次元では、正しくないものだ。
だが、その正しくないものを大きく包むような形で、この世界には、別の秩序が存在しているのではないか。
この宇宙がビックバンで誕生して、E=mc2に従ってエネルギーが水素や炭素といった物質になり、そして地球が誕生し、その中で生命が誕生したこと。
生命というのは、分子のアミノ酸レベルの段階から、淘汰(つまり暴力)の歴史を繰り広げてきたらしい。
だが、それを通して、今まで地球上で生命が受け継がれてきたこと。
なにか、そこには、人間社会の正しさの尺度を越えたものが存在しているような気がするのだ。
そして、(これは論理というより、信仰というか宗教じみたものになってしまうのだが)最終的に、僕たちは、「(人間社会の尺度で)正しく生きる」のではなく、そうした宇宙的ななにかにのっとって、「己の命を全うする」ように生きるほうが、その大きなものの目線で正しいのではないか、という気がするのだ。
僕は、できる限り、この世界の暴力は減らした方がいいと思う。
(男女の暴力に限らず、たとえばアフガニスタンで、冬の寒さに凍えている子どもたちはどんなに辛い思いをしているだろうか、と思う)
だが、最終的に暴力をゼロにできなくても、この世界は、在りうる価値があるのではないか、という気がする。
これもまた、男性という(暴力をはらんだ)存在の、身勝手な言い分なのかもしれない。
ただ、「母」という女性から生まれた存在の1人として、自分の命を考えたときに、そんなことを思うのだ。
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