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映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の2つの問い

5年ほど前、仕事で鳥取に出張した際に、境港市の「水木しげる記念館」に立ち寄る機会があった。

その際、水木しげるの幸福論と『ゲゲゲの鬼太郎』の持つ奥深さに触れ、一気に好きになった。

なので、昨年上映された『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』も観に行こうと思っていたのだが、いかんせん仕事が忙しく、映画館に足を運ぶことができなかった。

しかし、先日、Amazon Primeで本作の配信が始まり、このたび、ようやく観ることができた。

日本的な美を感じる作品

スマホで見てみて、改めて「大画面の劇場で見たかったな~」と思った。

印象的な山々や湖、殺人シーンのゾクゾクするような演出、そして建物や最後の洞窟部分など、日本の伝統を感じさせる不気味な美しさに満ちていて、大画面で見たらどんなだったろうと思わせられた。

(子どものときだったら、怖すぎて観てられなかっただろうが笑)

『ゲゲゲの鬼太郎』は、通常、アニメは子ども向けなので、過度におどろおどろしさが強調されない。

しかし、本来、ラフカディオ・ハーンに連なるような、日本古来の美しさを秘めた作品なのだと再認識させられた。

エンタメとしての話の流れやテンポも見事で、最近、ほとんど映画は観てなかったのだが、約2時間があっというまだった。

犠牲のうえに成り立つ繁栄

エンタメとして楽しむと同時に、映画のいくつかの問いかけに、深く考えさせられた。ここでは、2つの点を取り上げたい。

ひとつは、「カネ・権力(あるいは”日本”という社会)のために、何を、どこまで犠牲にしていいのか」という問題だ。

今回のストーリーの”悪役”である龍賀時貞は、幽霊族やその他の多くの人たちを踏みにじり、自身の富を築いてきた。彼はいかにもエンタメ映画の悪役っぽく、醜悪に描かれているが、しかし、彼の根本にあるのは、「日本を強くしたい」という思いだ。

第二次世界大戦の前、日本はとても貧しい状況にあった。戦争のきっかけのひとつとなった東北大飢饉では、農村で多くの人が餓死したり、娘を身売りさせたりしていた。

そうした社会を変えるためには、日本が強くならねばならない。

その方法として戦争は間違っていた、と現代人の感覚では思う。しかし、「日本を強くしなければ、この悲惨な状況はなくならない」という切迫感は、現代の僕たちの想像を超えるものだっただろう。

その点を考えたとき、龍賀時貞のような人間は、時代・場所を問わず、それなりにいるように思った。

本作の主人公・水木もまた、(自身の家族・自分自身を含め)「世の中で踏みにじられないためには、力を持たなければならない」という思いが、危険をおかしてまで龍賀村に来る動機となった。

結局、水木は、幽霊族や紗代たちの犠牲をみて、「これはおかしい」と反旗を翻す。

しかし、恐らく、戦後の日本社会の反映は、基本的には水木のような人間たちではなく、龍賀時貞のような人間たちによって作られてきたのだろう。そして、僕たち日本人は、その富のうえに、今の生活を築いている。

そのことを考えたときに、僕は、単純に龍賀時貞を否定できない。ただし、やはり水木の判断は正しかったと思う自分もいるのだ。

社会が保たれ、人々が幸せになるために、何かの犠牲が必要なのではないか。しかし、それはどこまで許容されるのか。

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、日本の戦後史と直接オーバーラップする内容だけに、日本人としての自分を問い直させられている気がした。

「あなたが生きる未来がみたいから、世界を守る」

もうひとつ、本作を観ていて、とても印象的だった点がある。それは、本作のキャッチフレーズのひとつとなっている

「友よ、おぬしが生きる未来を、この目で見てみとうなった」

という言葉だ。

本作のもう一人の主人公・ゲゲ郎は、人類を恨んでしかるべき立場の存在だ。彼自身は人間に害悪をもたらしてないにも関わらず、人類によって一方的に搾取・迫害されてきたのだから。

また、本作の最後に狂骨があふれ出して、世界を滅ぼそうとするとき、水木は「やらせておけ」という。

こんな間違った世界には、存在する価値がない。

戦場で味わった辛い思いも重ねながら、水木はそう絶望しているのだ。

(最近話題のSF『三体』では、中国の文化大革命時に悲惨なめにあった女性が、「人類には存在の価値はない」と考え、宇宙人と交信をはかり人類を滅ぼそうとしたことが、ストーリーの発端となる。これも、全く同じ構図だと思った。)

しかし、ゲゲ郎は、そんな間違っているはずの世界を守るために、命を投げだそうとする。

このことを考えたときに、ゲゲ郎が言いたかったのは、

「世界がたとえ間違っていても、私が大事に想う「あなた」という存在がいる限り、それは守る価値がある。」

ということなのではないか、と思った。

これは、前述した「社会の繁栄のための犠牲」に真っ向から対立するような在り方だと思う。

社会全体をみると絶望するが、具体的な個人をみるときに、絶望の中に(本当に小さいものだが)一筋の光がある。

現実の社会をみると、そんな光も、社会の圧倒的な不正があればたちまち飲み込まれてしまうのではないか。そんな気もするが、ただ、これは、制作した人たちの「祈り」、つまり「そうあってほしい」という強い想いが込められたメッセージなのでは、という気もした。


※ビジュアルはAmazon.comより引用

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