歴史とは、自分の居場所がわかる羅針盤だった。

卒業して30年後に歴史学の意味を悟った、もと史学生。

なぜそこに入ったのか、理解できていなかった西洋史の学生で、大学院にまで進んだけど、穴蔵のような、黴の匂いがする書庫は、異世界だった。
美術史に興味があったのは事実だけど、歴史というより、美術そのものが好きだった。
90年代にフランスに留学して、大学に編入して、半ば精神を病みながらも、「人間の歴史は巨大な螺旋構造だ」と理解した。「学ぶ」ことの意味がすとんと肚に落ちたし、辛い生活も吹き飛ぶ、まさにヘレン・ケラーの奇跡の感覚だと思った。

自分はいま、どこにいるのか。

螺旋構造とは、左右・上下に触れながら、結局はぐるぐると同じ法則を回転している、ということで、美術の世界で人間は「新しい形」を生み出しては「古典」に戻る、という繰り返しをしてきたのだ、とわかったとき、これは螺旋構造だ、と感じたのである。

そこまでは良かった。
しかし、時間の「長さ」には考え及んでいなかった。
歴史という一本線を引いたとき、自分はどこにいるのか?その感覚は、歴史が教えてくれる、と、最近はっきりと感じている。

ナポレオンは、自分の祖父くらいのもの。

若い時は、フランス史上のナポレオン・ボナパルトは、「歴史上の人物」であって、ものすごく昔の、なんなら、進化論の途中にいるような存在に思われていた。

ところがどっこい!
自分が半世紀(50年)生きてみると(それは案外、あっさり来る)、200年前って、せいぜい2〜3人前の世代、みたいな気持ちになってくるもので、そう考えると、かのナポレオン・ボナパルトは、自分のおじいちゃんくらいの感覚でしかないのだ。
これは驚き。もし100歳まで長生きした人をつなげば、イエス・キリストですら、せいぜい20人くらい前の世代、ということになってしまう!
え、20人?

でも、そういう時間感覚は、案外、現実的なのだ、と思う。

フランス女性は開放的?

実は、私の世代では、「フランス女性=センシュアルで開放的」というイメージが鮮烈で、若い頃、フランスという国を知り始めた時は、それがロゼッタストーンに刻まれるくらい自明の理だと信じていました。
その頃です、元大統領ミッテランの、不倫を暴露されて「Et alors? (それが何か?)」というセリフが日本中を駆け巡ったのは。
フランス女性といえば、美しい体のラインを顕にする、女性であることを誇らしく謳歌する人たち。
フランスとはそういう国、自由の国、バカンスと恋愛が人生の価値を決めるほど重要な国、という、羨望とともに悔しさが入り混じる、非常に絶妙な感覚でした。
それが、フランス、と信じていた20代でした。

あれ?という、素朴な疑問。

一方で、90年代に、24歳で留学した時から、時折感じた「あれ?」という素朴な疑問が随所にありました。
たとえば、食の保守性。
日本人は、和食、洋食、中華、むちゃくちゃエキゾティックな料理などが、ひとつのテーブルに所狭しと広げられる、ある意味貪欲な興味を食に表現できる国民だと思います。
一方、あれほど「開放的、革新的」だと思っていたフランスでは、家庭の料理は、それこそ200年前から同じレシピ、同じ名前?と思うくらい、絶対に変えてはいけないポイントがたくさんある料理が並べられ、そこにもし、日本料理や中華料理が混じってこようものなら「え、なにこれ?!」と笑いと動揺が巻き起こる(少なくとも90年代はそうでした)感じでした。
「フランスって、革新的な部分が多いけど、日本より保守的なことが結構ある」というのが、当時、意識的・無意識的に得た感覚でした。

ドゴール、ポンピドゥー、ミッテラン、シラク・・・歴代”名”大統領がつくった時代たち。

上で書いたように「ナポレオン・ボナパルトは自分のおじいちゃんくらいの感覚」ならば、ナポレオン・ボナパルトの甥で第3共和制を敷いたナポレオン3世になれば、自分の叔父ちゃんくらいの感覚、ということになります。
しかし、現在、「歴史あるパリの風景」と呼ばれるものは、ほとんど、このナポレオン3世の時代に創造されたものです。それ以前のパリは、小さな路地が入り組み、衛生的にも安全面でも問題が多かったために、ナポレオン3世が大胆な「スクラップ&ビルド」を行い、現在のような、放射線状に広がるパリの大通りや、建造物を整備したわけです。
長いパリの歴史からすれば、おじちゃん世代に整備したもの、ということになるわけで、自分の「歴史的」という概念も完全に”スクラップ&ビルド”された気分でした。

1960年代、1970年代の社会運動が生み出した「文化」の開放

私たちが日本でも享受している「大道=公共空間」でのパフォーマンス、これも、60年代末〜70年代の社会運動の恩恵です。
日本の大道芸フェスは、フランスで始まった「公共空間をあらゆるアートに開放する」という運動が、極東(欧州目線でいうと)まで届いた産物です。

言い換えれば、それまでフランスは保守的だったし、女性も”伝統的な女性の枠”に押し込められていたために、この時代に一気に開放され、そのイメージが私の世代では、物心ついた頃からの「フランス」のイメージになったわけです。しかしそれは、まさにその10年くらい前に達成されたに過ぎなかったもので、
(重要なことですが)
「それは、そんなに長く続かなかった」
ということにもなり得る。

シャルル・ドゴールは「強い軍隊」と同時に、文化の重要性をよく理解し、前面に打ち出したし、ポンピドゥー氏もその流れを汲んでいたように思う。
フランソワ・ミッテラン元大統領とジャック・シラク元大統領の時代が、まさに私がフランス遭遇の時代、
文化の国、バカンスの国、センシュアルな女性のいる国、というイメージに完璧に合致。
ルーブル美術館のガラスのピラミッド、世界の民俗を同じステージに集めたケ・ブランリ美術館開館・・・
「これがフランス」だと信じていた。けれども、それは「その時代のフランス」だった、と、最近になって真に理解するようになる。

歴史を知ることは、自分のいる場所を知ること。

言いたいことは、「昔は良かった」、ではなく、
今や過去の自分が、どの位置にいるのか、何をすべきなのか?どこに向かうべきか?などを把握するには、絶対的に歴史を知ることが必要なのだ、ということ。
自分のサイズ感がよくわかるし、
何より、現代社会が、長い歴史の螺旋構造のどのあたりにいるのか?を考えるのは、重要だと思う。

いずれにしても、巨大な螺旋構造からは逃れられないし、逃れるとしたら、それは破滅の時かもしれない。
ならば、きちんと螺旋にいるのだ、と自覚することが、いま最も求められていることなのだと思う。

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