【#散策コラム:1-2観光地の裏へ-広島県尾道市久保地区】
1.はじめに
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
残暑も厳しい今日この頃です。
今回紹介させていただくのは、
広島県尾道市の一角にある”レトロ”な繁華街です。
一般的には「尾道」と聞いて何を思い浮かべますか?”坂の町”、”レトロ商店街”と言ったところでしょう…。
しかし、今回は観光地の目と鼻の先にある嘗ての遊郭跡を巡り写真撮影を行います。同時に過去を振り返り、遊女を通じて”人間とは?”、”生きるとは?”を考えたいです。
2.散策先の紹介
今回散策するのは久保地区と言われる場所です。JR尾道駅から徒歩15分程度にあります。
過去の資料を探ると『全国遊廓案内』には
『尾ノ道市遊郭』と記載されていますね。
“貸座敷(揚屋)は目下78軒、娼妓は220人、四国九州地方出身者多し。娼妓は少敷の居稼ぎの他は全部送り込み制。”との事です。
その起源は古く、南北朝時代に遡ります。古くからここ尾道は関西と博多を東西に結び、北は石見から銀の道として栄えた要所でありました。そこには人と金が集まり、必然的に遊郭が繁栄したのです。
3.道中にて
4.怪しくなる風景
商店街を直進し続けアーケードも無くなった頃、
見つけました。そろそろ目的地と思い辺りを見回すと…。
5.中心部の風景
上記の建築物が並ぶ場所から更に奥へ進むと…。
通り一帯を覆うカフェー建築達。
戦後もここが赤線地帯として機能していた貴重な名残ですね。他の地域と同じく現在はスナックとして再利用されている様です。
昼間に訪れたため、この空間を独り占めできました。
6.リフォームされた妓楼建築
この目で見つけました。確実に此処には嘗て、凡ゆる目的(※自己責任以外の要素が多かったと記録されてます。理不尽は何時の時代も付き物です。)で春を売る女性とそれに集まった男と金によって栄えてきた歴史がありました。
7.個人名が記された玉垣
全国各地の遊郭跡には診療所、美容院、稲荷神社の三点セットが残る場所も多いですね。
今回はその中の稲荷神社(お稲荷さん)がこの場所を象徴していた為、紹介します。遊郭跡の端っこにひっそりと鎮座する神社でした。
写真を見て分かるように朱色の鳥居は苔カビによって侵蝕されたまま。あまり手入れは行き届いてない様です。誰からも忘れられる、或いは存在意義を余り知られる事なく建ち続けているのでしょうか。
お稲荷様を取り囲む玉垣に刻まれた名前、その半数以上が女性の氏名でした。もうお分かりでしょうがこれは嘗ての遊女達がお稲荷様へ寄進した記録なのです。しかも此処で働いた遊女の内、競争を勝ち抜き、一定度の成功を収めた者たちでしょう。勿論、名も知れず消えていった者達の方が多いのでしょう。
一般的に寄進が信仰心によって成されたと言われますが、私個人には彼女達の世の中へ存在の痕跡であったのだと考えてしまいます。過酷な環境を生き抜いて自分の存在が認められた故、やがて訪れる死を見越してです。”私を忘れないで”、そんな声が稲荷の社の隙間から聞こえて来そうな場所でした。
8.私見-現在から見た遊郭の存在理由-
現在に生きる我々からすると、過去の遊郭や赤線地帯での営みはダークで非人道的なイメージを持たれる事が多いでしょう。
しかし人間=動物として捉えた場合、人間の営みはいつの時代も”性的欲求”とは切り離せない様です。ただ過去との違いとしてそれを満たす行為をする空間と場所が変わっただけの事ですね。(※都市部で行われている浄化、性の不可視化がそれに該当します。)
また、政策的観点から見ると、当時の社会政策として生活及び雇用の受け皿という観点はないでしょうか?育てられない子を殺さずに手放し生かすという選択肢の一つですね。
抑々社会経済のパイが非常に小さい故、取れる選択肢も限られてくるのは当然なのでしょうね。
前者の観点からすると息苦しい時代、後者の観点からすると制度に最も恵まれた時代。皆さんは現代社会をどう思いますか?
いかがでしたでしょうか?皆さんも是非尾道を訪れた際には、隠された過去に目を向けて見てはどうでしょうか?別の視点でこの街の歴史を感じ、そこから今を俯瞰すると何かのヒントが生まれるかも知れませんね。