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場面緘黙後遺症、母語が文章

お風呂のなかでふと降りてきて腑に落ちたことなんだけど、私にとって「日本語を喋る」ということは、ごく一般的な日本人にとっての「英語を喋る」と同じ意味なのかもしれない。

母語(私の場合は日本語の文章)から頭の中で変換をして、これで合ってるか……?齟齬なく正しく伝わるか……?と、ひとつひとつの語句を毎度変換しながら探り探りで話していく感じ。

実際片言になりがちなので、自分と会話をしてくれた経験のある方なら、上記の解釈をすんなり理解してもらえる気がする。

まったく思ってもいないことが意図せず口から飛び出してしまうのも、変換機がバグってしまって盛大な誤変換を起こしている……ということだろう。
母語である文章で会話していれば、そんなことは起こらない(はずだ)。

イントネーションがおかしいのも、母語が日本語の日本人が英語をネイティブと同じように話すのは困難を極めるのと同じ……ということなのではないかと思う。

「手話はひとつの言語であり、母語になる」という話を何度か見聞きしたことがある。
深い部分までまだ知らない話を知ったように話すのはとても気が引けるのだが、
おそらくはそれと同じように、あるいは類似したパターンとして、きっと幼い頃から言葉を失い文章を主体として生きてきた私にとっての母語は「日本語の文章」なのであろうなと、そう思った。

なんだか、とてもすっきりした。

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